BEGIN:VCALENDAR VERSION:2.0 PRODID:-//chikkutakku.com//RDFCal 1.0//EN X-WR-CALDESC:GoogleカレンダーやiCalendar形式情報を共有シェ アしましょう。近所のイベントから全国のイベントま で今日のイベント検索やスケジュールを決めるならち っくたっく X-WR-CALNAME:ちっくたっく X-WR-TIMEZONE:UTC BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦「清霜」 DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251225T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251226T150000Z UID:989083406917 DESCRIPTION:1944年12月26日 ミンドロ島沖海戦(礼号作戦)にて 戦没\n\n12月24日、ミンドロ島のアメリカ軍に対する殴り こみ作戦「礼号作戦」が開始され、挺身部隊はこれに 呼応してカムラン湾を出撃。2日後の12月26日21時15分、 「清霜」はB-25の爆撃を受け、左舷中部に250キロ爆弾を 受ける。重油タンクが破壊され左舷の機関は停止。ま た数分後には右舷の機関も停止し航行不能となった。 艦尾が激しく沈下し船体全てから火災が発生した「清 霜」は、23時15分に大爆発を起こして北緯12度38分 東経12 0度43分の地点で沈没した[21]。「朝霜」は「清霜」が行 方不明になった事を「霞」座乗の第二水雷戦隊司令官 木村昌福少将(海兵41期)に報告したが、木村少将は作 戦終了後に救助するので海図に沈没位置を記しておく よう命令した[22]。やがて砲撃を終えた挺身部隊は、「 霞」と「朝霜」を乗員の救助にあたらせるため残留さ せ、残りは先にカムラン湾に向かった。「霞」と「朝 霜」は機関を止めて航空機と魚雷艇に警戒しつつ救助 活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ 「清霜」の乗員を数えた[23]。1時間14分に及ぶ救助作業 の末、白石長義司令以下91名が「霞」に、駆逐艦長梶本 顗中佐以下167名が「朝霜」に、合計258名が救助された[2 3]。戦死および行方不明者は84名であったが、行方不明 者のうちの5名はアメリカ魚雷艇に救助された[23]。\n\nht tp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E5%8F%B7%E4%BD%9C%E6%88%A6#.E6.88.A6. E5.8A.9B LOCATION: END:VEVENT END:VCALENDAR