BEGIN:VCALENDAR VERSION:2.0 PRODID:-//chikkutakku.com//RDFCal 1.0//EN X-WR-CALDESC:GoogleカレンダーやiCalendar形式情報を共有シェ アしましょう。近所のイベントから全国のイベントま で今日のイベント検索やスケジュールを決めるならち っくたっく X-WR-CALNAME:ちっくたっく X-WR-TIMEZONE:UTC BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦初梅:竣工日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250617T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250618T150000Z UID:167189820501 DESCRIPTION: 仮称4815号艦、橘型(改松型)駆逐艦14番艦 として舞鶴海軍工廠で建造され、日本海軍駆逐艦の中 で最後の竣工となった。1944年12月8日起工、1945年4月25日 進水。6月18日に竣工した。竣工後はそのまま舞鶴で訓 練、待機した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦萩風:進水日(1940) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250617T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250618T150000Z UID:251642291361 DESCRIPTION: マル4計画、仮称第113号艦として浦賀船渠で1 939年(昭和14年)5月23日起工[3]。同造船所では、萩風の ほかに5隻の陽炎型(不知火、早潮、時津風、浜風、秋 雲)を建造した。 1940年(昭和15年)2月23日、仮称第113 号艦は「萩風」(ハギカゼ)と命名された[1]。同日附 で姉妹艦嵐や敷設艦津軽等も命名されている[1]。萩風 は同年6月18日に進水し[3]、1941年(昭和16年)3月31日竣 工[3]。横須賀鎮守府籍。 同日附で萩風は陽炎型16番艦 嵐と共に、新たに編制されたばかりの第4駆逐隊に所属 することになった[8]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦吹雪:起工日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250618T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250619T150000Z UID:290570998227 DESCRIPTION: 第35号駆逐艦の艦名は、既に浦風型駆逐艦浦 風で使われていた[6]。 吹雪は舞鶴工作部で1926年(大正 15年)6月19日に起工[7]。6月25日、浦賀船渠で建造の駆逐 艦に第三十三号駆逐艦(望月)[8]、本艦に「第三十五号駆 逐艦」、佐世保海軍工廠の駆逐艦に第四十号駆逐艦(東 雲)の艦名が与えられる[9]。同日附で「第33号駆逐艦、 第35号駆逐艦、第40号駆逐艦」は一等駆逐艦に類別[10]。 \n 「第35号駆逐艦」は1927年(昭和2年)11月15日に進水 、1928年(昭和3年)8月1日、「吹雪」と改称された[1]。 改名から間もない8月10日に竣工[7]。 吹雪型初期姉妹艦 (吹雪、白雪、初雪、深雪)と共に第11駆逐隊を編制し ていた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦磯風:進水日(1939) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250618T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250619T150000Z UID:109700340379 DESCRIPTION: 陽炎型駆逐艦磯風は仮称第28号艦として佐世 保海軍工廠で建造がはじまった。1938年(昭和13年)11月 25日起工[2]。1939年(昭和14年)5月1日に磯風(イソカゼ )と命名[3]、同年6月19日進水[2]。11月30日に竣工[2]。呉 鎮守府籍[4]。陽炎型駆逐艦全19隻のうち、8番艦雪風と12 番艦磯風のみ佐世保工廠で建造された[5]。磯風は陽炎 型浦風、谷風と共に1940年12月15日(11月15日内令第847号 )に編成された第17駆逐隊に所属[6]。1941年(昭和16年) 6月30日に陽炎型13番艦浜風が竣工・編入される[7]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦椿:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250619T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250620T150000Z UID:324154970032 DESCRIPTION: 丁型一等駆逐艦第5498号艦として舞鶴海軍工 廠で建造された。1944年6月20日に起工、同年9月30日に進 水、11月30日に竣工した。本籍は舞鶴鎮守府[1]。就役後 、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学 校41期)に編入。瀬戸内海に回航され、訓練の後2月5日 付で「桜」とともに第一海上護衛隊の指揮下に入る。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦村雨:進水日(1935) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250619T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250620T150000Z UID:320692916550 DESCRIPTION: 1933年(昭和8年)12月15日、村雨(ムラサメ )と命名[3]。第67号駆逐艦村雨は藤永田造船所で1934年 (昭和9年)2月1日に起工し、1935年(昭和10年)6月20日 に進水した[4]。 当時は初春型駆逐艦の最新鋭艦として 紹介されたこともあった[5]。 1937年(昭和12年)1月7日 、浦賀の3番艦村雨と佐世保の4番艦夕立は同日附で竣工 した[4][6]。\n LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦陽炎:除籍日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250619T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250620T150000Z UID:296034204671 DESCRIPTION: 1943年6月20日、駆逐艦陽炎は姉妹艦2隻(黒潮 、親潮)と共に除籍された[194]。また同日附をもって第 15駆逐隊も解隊[195]。陽炎型駆逐艦の名称も『不知火型 駆逐艦』に変更された[4]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦親潮:除籍日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250619T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250620T150000Z UID:238770215683 DESCRIPTION: 1943年6月20日、陽炎型3隻(黒潮、親潮、陽炎 )は帝国駆逐艦籍より除籍[105]。全滅した第15駆逐隊も 同日附で解隊された[106][27]。陽炎型駆逐艦の名称も「 不知火型駆逐艦」に改定され、3隻は不知火型駆逐艦籍 からも削除された[107]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦羽風:進水日(1920) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250620T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250621T150000Z UID:141153820982 DESCRIPTION: 三菱長崎造船所で建造。1918年11月11日起工、 1920年6月21日進水。同年9月16日に竣工した。一等駆逐艦 に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夕立:進水日(1936) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250620T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250621T150000Z UID:668893185412 DESCRIPTION: 白露型駆逐艦4番艦夕立は佐世保工廠で1934年 (昭和9年)10月16日に起工された[3]。1936年(昭和11年) 6月21日に進水[3][4]。 7月15日附で中原義一郎少佐は夕立 艤装員長に任命される[5]。 8月1日、佐世保工廠に夕立 艤装員事務所が設置され、11月1日附で中原は夕立初代 駆逐艦長となる[7]。後任の夕立駆逐艦長は沢村成二少 佐となる[8]。\n 1937年(昭和12年)1月7日、夕立は竣工 した[3]。横須賀鎮守府籍[9]。白露型3番艦村雨(藤永田造 船所建造)と同日附の竣工であった[10]。同日、白露型2 隻(村雨、夕立)により第2駆逐隊が編制され、初代駆 逐隊司令は田中頼三大佐[11]となる[注釈 3]。田中は第2 駆逐隊司令駆逐艦を夕立に指定した[12]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦欅:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250621T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250622T150000Z UID:155554645586 DESCRIPTION: 丁型一等駆逐艦第5508号艦として横須賀海軍 工廠で建造された。1944年6月22日起工、9月30日に進水、1 2月15日に竣工した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦敷波:進水日(1929) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250621T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250622T150000Z UID:796080952789 DESCRIPTION: 舞鶴工作部で建造。1928年7月6日に起工、1929 年6月22日に進水。同年12月24日に竣工した。一等駆逐艦 に類別された。「磯波」「浦波」「綾波」と第19駆逐隊 (第2艦隊第2水雷戦隊)を編成した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦山風:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250622T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250623T150000Z UID:234131387165 DESCRIPTION: 1942年6月23日午後1時、「山風」は大湊を出発 、柱島(内海西部)へ単独航行中、19時45分の連絡を最 後に消息を断った[74]。この時、「山風」は東京湾沖で アメリカの潜水艦ノーチラス (USS Nautilus\, SS-168) の雷撃 に遭い撃沈されていた[8][注釈 6]。浜中艦長以下乗組員 全員が戦死[75]。アメリカ軍による沈没地点記録は北緯3 4度34分 東経140度26分。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦波風:進水日(1922) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250623T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250624T150000Z UID:203112932945 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1921年11月7日起工、1922 年6月24日進水。同年11月11日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。1922年(大正11年)12 月28日、神風型駆逐艦 (2代)「第一駆逐艦」(「神風」 )と同じく第1駆逐隊に編入され、同型艦「野風」「沼 風」とともに千島、北海道方面の交通保護に当った。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦灘風:進水日(1920) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250625T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250626T150000Z UID:261460074573 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1920年1月9日起工、同 年6月26日進水。1921年9月30日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。竣工後直ちに第3駆 逐隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦深雪:進水日(1928) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250625T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250626T150000Z UID:197826051790 DESCRIPTION: 1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は建造予 定の駆逐艦4隻を、それぞれ第三十六号駆逐艦(横浜船 渠。後の白雪)、第三十八号駆逐艦(後の深雪)、第 三十九号駆逐艦(藤永田造船所。後の叢雲)、第四十 四号駆逐艦(佐世保海軍工廠。後の浦波)と命名する[7 ][8][9]。 第38号駆逐艦は、同年4月30日に浦賀船渠で起工[ 10][11][12]。同造船所では、既に第43号駆逐艦(磯波)の 建造が進んでいた[13]。 \n 1928年(昭和3年)6月26日午 前11時30分、第38号駆逐艦は無事進水[14][15]。その4日後 、第43号駆逐艦(磯波)は竣工して浦賀を離れた[13]。 8 月1日附で第38号駆逐艦は深雪と改称[1][10]。 12月10日、 日本海軍は睦月型駆逐艦2番艦「如月」駆逐艦長加藤仁 太郎中佐を、深雪艤装員長に任命する[16]。\n 1929年( 昭和4年)2月12日午後、東京湾で試運転中に伊号第24号 潜水艦と衝突、スクリューに損傷を受けて4月30日の竣 工予定を延期した[17][18]。 6月29日に竣工[12][19]。艤装員 事務所を撤去[20]。加藤艤装員長も、正式に深雪駆逐艦 長(初代)となる[21]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦霞:竣工日(1939) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250627T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250628T150000Z UID:152932924590 DESCRIPTION:  1936年(昭和11年)1月20日、日本海軍(海軍 大臣大角岑生大将)は、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦1 隻を「朝雲(アサグモ)」と命名した[6]。 6月19日、日 本海軍(海軍大臣永野修身大将)は「朝雲」を「霞」 と改名した[2]。 10月22日、日本海軍は改めて神戸川崎造 船所で建造する朝潮型5番艦を「朝雲」、藤永田造船所 で建造予定の6番艦を「山雲」と命名している[7]。 「霞 」は浦賀船渠で1936年(昭和11年)12月1日に起工[8]。 1937 年(昭和12年)11月18日に進水[8][9]。\n 1939年(昭和14年 )4月15日、「霞」より遅れて建造が始まった同型艦「 霰(アラレ)」が舞鶴海軍工廠で竣工(進水も霞より2 日早い)[13]。6月下旬、霞艤装員事務所を撤去[14]。 「 霞」は6月28日に竣工した[8]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦不知火:進水日(1938) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250627T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250628T150000Z UID:108465082526 DESCRIPTION: 不知火は浦賀船渠で1937年8月30日に起工、1938 年6月28日に進水。1939年12月20日に竣工した。呉鎮守府在 籍。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦梅:竣工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250627T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250628T150000Z UID:217629212194 DESCRIPTION: 1944年(昭和19年)1月25日、起工、日本海軍 は駆逐艦3隻をそれぞれ『竹』・『梅』・『桃』と命名 、他に潜水艦や海防艦や掃海艇複数隻を命名した[2]。 同日附で駆逐艦3隻(竹、梅、桃)は松型駆逐艦に類別 される[3]。「梅」は呉鎮守府在籍と仮定されていたが 、4月5日附で横須賀鎮守府仮在籍に改定[4]。4月24日、進 水。 6月28日、「梅」は竣工して横須賀鎮守府籍[10]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦深雪:竣工日(1929) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250628T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z UID:135729474777 DESCRIPTION: 1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は建造予 定の駆逐艦4隻を、それぞれ第三十六号駆逐艦(横浜船 渠。後の白雪)、第三十八号駆逐艦(後の深雪)、第 三十九号駆逐艦(藤永田造船所。後の叢雲)、第四十 四号駆逐艦(佐世保海軍工廠。後の浦波)と命名する[7 ][8][9]。 第38号駆逐艦は、同年4月30日に浦賀船渠で起工[ 10][11][12]。同造船所では、既に第43号駆逐艦(磯波)の 建造が進んでいた[13]。 \n 1928年(昭和3年)6月26日午 前11時30分、第38号駆逐艦は無事進水[14][15]。その4日後 、第43号駆逐艦(磯波)は竣工して浦賀を離れた[13]。 8 月1日附で第38号駆逐艦は深雪と改称[1][10]。 12月10日、 日本海軍は睦月型駆逐艦2番艦「如月」駆逐艦長加藤仁 太郎中佐を、深雪艤装員長に任命する[16]。\n 1929年( 昭和4年)2月12日午後、東京湾で試運転中に伊号第24号 潜水艦と衝突、スクリューに損傷を受けて4月30日の竣 工予定を延期した[17][18]。 6月29日に竣工[12][19]。艤装員 事務所を撤去[20]。加藤艤装員長も、正式に深雪駆逐艦 長(初代)となる[21]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦深雪:沈没日(1934) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250628T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z UID:297897462036 DESCRIPTION: 1934年6月29日午後1時、第四回連合艦隊基本演 習がはじまる[62]。午後5時頃より本格的な交戦がはじま るが、狭隘海面に多数の艦艇がひしめき、さらに天候 と煙幕のため視界は極めて悪かった(約10km)[62]。午後 6時頃、乙軍の第11駆逐隊(1番艦深雪、2番艦初雪、3番 艦白雪)は甲軍(仮想敵)の第四戦隊第2小隊(高雄、 愛宕)に対し雷撃を敢行し、続いて煙幕(軽巡洋艦「 由良」展開)[63]を転舵で避け、たまたま発見した「衣 笠」(乙軍)に続航しようとしていた[64]。\n 直後、 煙幕の中から乙軍の第6駆逐隊(1番艦電、2番艦響、3番 艦雷)が出現、回避できず「電」(第6駆逐隊司令駆逐 艦)が「深雪」(第11駆逐隊司令駆逐艦)の左舷に衝突 する[65][66]。 「深雪」の船体は艦橋直下の46番ビーム付 近で断裂[67]。 後部船体に「那珂」が横付し、那珂・愛 宕乗組員の応援を得て排水を試みたものの浸水が止ま らず、第二水雷戦隊司令官阿部清少将(那珂座乗)は 深雪乗組員の退去を命じた[68]。 深雪乗組員は「那珂」 に移動[69]。軽傷者は金剛型戦艦1番艦「金剛」(連合艦 隊旗艦)に収容された[70]。総員退去の後、「那珂」は 「深雪」への横付を離す[68]。\n 午後9時53分[71]、北緯3 2度51分 東経127度11分[72]もしくは北緯32度57分 東経127度14 分地点で沈没した[68]。 深雪艦首部分は駆逐艦2隻(初 雪、叢雲)で曳航を試みたが濃霧の中で見失い、翌日 の捜索でも発見できず、沈没したものと推定された[73][ 74]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦新月:進水日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250628T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z UID:197102573186 DESCRIPTION: 1939年(昭和14年)度計画(マル4計画)仮称1 08号艦[8][9]。太平洋戦争開戦日の1941年(昭和16年)12月8 日、三菱重工業長崎造船所で起工[9]。1942年(昭和17年 )5月15日、『新月』の艦名が与えられた[3]。同日附で 秋月型駆逐艦として登録[11]。6月29日に進水した[8][9]。\ n 1943年2月23日、長崎海軍監督官事務所に艤装員事務所 を設置する[17]。 それから間もない3月31日、「新月」は 竣工した[7][18]。同日附で新月艤装員事務所を撤去[19]。 金田艤装員長も制式に新月駆逐艦長(初代)となった[2 0]。同日附で横須賀鎮守府籍となる[21]。第一艦隊附属[2 2]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦山風:竣工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z UID:589833574342 DESCRIPTION: 本艦は浦賀船渠で1935年(昭和10年)5月25日 に起工[11][12]。 1936年(昭和11年)2月21日進水[13][11]。当 事の浦賀船渠は白露型3隻(時雨、五月雨、山風)を同 時に建造していた[14]。 7月1日、日本海軍は野間口兼知 少佐(前職、睦月型駆逐艦5番艦皐月駆逐艦長)を山風 艤装員長に任命した[15]。\n 1937年(昭和12年)1月21日 、浦賀船渠に山風艤装員事務所を設置[16]。 5月31日、姉 妹艦2隻(江風、海風)により第24駆逐隊が編制される (司令久宗米次郎大佐)[17][18]。初代司令駆逐艦は「江 風」[19]。「江風」は本艦よりも先に竣工していたので ある[20]。 編制直後の第24駆逐隊は佐世保警備戦隊に編 入、同戦隊は(戦艦《金剛》、巡洋艦《妙高、長良、 北上》、第24駆逐隊、第23駆逐隊《菊月、三日月、望月 、夕月》、第29駆逐隊《追風、疾風》)となった[21]。\n  6月30日、「山風」は竣工した[11]。同日附で野間口艤 装員長は山風駆逐艦長(初代)となる[22]。佐世保鎮守 府所属[23]。竣工と同時に、佐世保へ回航[24]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦磯波:竣工日(1928) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z UID:109878754719 DESCRIPTION: 本艦は浦賀船渠で建造。一等駆逐艦に類別 された。1926年10月18日起工、翌年1927年11月24日進水。1928 年(昭和3年)8月1日、「第43号駆逐艦」を「磯波」と改 名。同年6月30日に竣工した。同年12月1日、「浦波」「 敷波」「綾波」と第19駆逐隊(第2艦隊第2水雷戦隊)を 編成した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝霧:竣工日(1930) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z UID:205327871679 DESCRIPTION: 佐世保海軍工廠で建造。1928年12月12日に起工 、1929年11月18日に進水。1930年6月30日に竣工した。一等 駆逐艦に類別された。1930年(昭和5年)12月1日、「天霧 」と第8駆逐隊を編成し、第2水雷戦隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦早潮:起工日(1938) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z UID:161338292857 DESCRIPTION: 浦賀船渠で1938年(昭和13年)6月30日起工、19 39年(昭和14年)4月19日進水、1940年(昭和15年)8月31日[ 2]に竣工[1]。呉鎮守府籍。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦浜風:竣工日(1941) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z UID:168560204335 DESCRIPTION: 陽炎型駆逐艦13番艦浜風は、仮称第29号艦と して浦賀船渠で1939年(昭和14年)11月20日起工された。 浦賀船渠で建造された姉妹艦は浜風のほかに2番艦不知 火、5番艦早潮、10番艦時津風、17番艦萩風、19番艦秋雲 がある。1940年(昭和15年)11月15日附で命名[1]、同日に は戦艦武蔵も命名されている[3]。11月25日進水、1941年( 昭和16年)6月30日に竣工、呉鎮守府籍に編入され[4]、同 日附で第17駆逐隊に加わる[5][6]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦長波:竣工日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250629T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z UID:204146574020 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第119号艦として藤 永田造船所で建造、1941年4月5日起工、1942年(昭和17年 )3月5日進水、同年6月30日に竣工して一等駆逐艦に類別 され、横須賀鎮守府籍となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦楢:解体日(1948) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250701T150000Z UID:106786066565 DESCRIPTION: 1945年6月30日、関門海峡西口で触雷して艦尾 屈曲、艦後部浸水、二番砲使用不能などの損傷を受け て航行不能となる[10]。門司港に繋留されたまま7月15日 付で特殊警備艦となり[11]、終戦を迎えた。船体はその まま放置され、1948年(昭和23年)5月に解体開始、7月1 日解体が完了した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦榎:解体日(1948) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250701T150000Z UID:129374630460 DESCRIPTION: 第十一水雷戦隊は瀬戸内海への機雷投下を 避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴 に到着するも、舞鶴鎮守府から「空襲の際に刺激とな る」との理由で、舞鶴以外の場所へ移動するよう要請 を受ける[2]。そこで、6月に入って小浜湾に移動するこ ととなった[3]。\n6月26日昼過ぎ、小浜湾内の錨地に入泊 した際に触雷する。小浜灯台の310度750メートル地点に 曳航され、右に32度傾いた状態かつ艦尾を着底させ[4]、 艦橋の一部を水面に露出した状態で擱座。そのまま終 戦を迎えた。\n 1948年(昭和23年)6月から7月1日に三菱 七尾造船所で解体された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夏雲:起工日(1936) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250630T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250701T150000Z UID:310655789409 DESCRIPTION: 1936年(昭和11年)6月10日、佐世保工廠で建 造予定の駆逐艦に「夏雲」の艦名が与えられる[1]。佐 世保工廠で建造された朝潮型は、「朝潮」と「夏雲」 の2隻である[3]。「夏雲」は同年7月1日に起工[4][5]。 1937 年(昭和12年)5月26日に進水[4][6]。神戸川崎造船所で建 造していた朝潮型4番艦「荒潮」と同日附の進水である[ 6]。 8月16日、日本海軍は吹雪型駆逐艦「東雲」および 「薄雲」駆逐艦長を兼務していた北村昌幸中佐を、夏 雲艤装員長に任命した[7]。8月23日、佐世保工廠に夏雲 艤装員事務所を設置[8]。本艦は朝潮型1番艦「朝潮」と 共に建造された。 同年12月8日、北村は正式に夏雲初代 駆逐艦長となる[9]。\n 1938年(昭和13年)2月10日に竣工 [4]。ただちに横須賀に回航された[10]。同日附で第41駆 逐隊(山雲、夏雲)が編制された(駆逐隊司令高間完 大佐)。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦秋雲:起工日(1940) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250701T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250702T150000Z UID:150804762252 DESCRIPTION: 駆逐艦「秋雲」は1939年度(マル4計画)仮称 第115号艦として浦賀船渠で1940年(昭和15年)7月2日起工 [4]。 1941年(昭和16年)3月25日、「秋雲(アキグモ)」 と命名[1]。同日附で昭和16年度内令246号により一等陽炎 型に分類される[5]。横須賀鎮守府仮定[6]。 同年4月11日 進水[4]。 4月10日まで白露型駆逐艦4番艦「夕立」駆逐艦 長だった有本輝美智中佐[7]は、6月15日附で秋雲艤装員 長に任命される[8]。 6月17日、浦賀船渠浦賀工場内に秋 雲艤装員事務所を設置する[9]。\n 1941年9月27日に竣工[4 ][3]。同日附で秋雲艤装員事務所を撤去[10]。有本も制式 に秋雲駆逐艦長(初代)となる[11]。竣工後の引渡式の 際、岸壁にはロケーションのため浦賀船渠にいた女優 の高峰三枝子や桑野通子らがおり、盛んに声援を送ら れた[12]。同日附で正式に横須賀鎮守府所属[13]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦秋月:進水日(1941) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250701T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250702T150000Z UID:378676650171 DESCRIPTION: 1939年(昭和14年)度のマル4計画による乙型 一等駆逐艦の第104号艦として建造がはじまる。舞鶴工 廠にて1940年(昭和15年)7月30日に起工[6][7]。1941年(昭 和16年)2月に軍令部が策定した計画では、大和型戦艦 や改大和型戦艦、航空母艦の直衛艦として乙型駆逐艦 (秋月型)を大量配備することが検討されている[8]。5 月15日、正式に秋月と命名[4]、一等秋月型秋月として登 録される[9]。7月2日に進水[7]。同日附で佐世保鎮守府籍 [10]。\n 本艦の完成(竣工)は1942年5月25日を予定して いたが公試で主砲塔に不具合が判明し、6月中旬に延期[ 19]。秋月は砲塔の不具合を解消しないまま急遽作戦に 投入することになり、完成予定日を繰り上げて6月11日 に竣工した[22][23]。 同日附で警備駆逐艦[24]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦杉:進水日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250702T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250703T150000Z UID:138199106940 DESCRIPTION: 藤永田造船所で建造された。1944年2月1日起 工、7月3日進水、8月25日に竣工した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦文月:竣工日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250702T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250703T150000Z UID:315925712187 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1924年(大正13 年)10月20日、藤永田造船所で起工。当初の起工予定日 は11月10日であったが、工事上の都合により変更された[ 5]。11月10日、制式に「第二十九号駆逐艦」と命名され る[6]。同日附で一等駆逐艦に類別[7]。 1926年2月16日に進 水。7月3日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。1928年( 昭和3年)8月1日附で「文月」と改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦旗風:起工日(1923) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250702T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250703T150000Z UID:309572800549 DESCRIPTION: 本艦は1923年(大正12年)7月3日に起工[14][21] 。1924年(大正13年)3月15日、「第九駆逐艦」として進 水[14][22]。 艤装中の4月24日附で「第九駆逐艦」は「第 九号駆逐艦」と改称[8]。 6月10日、日本海軍は荒糺(あ らただし)少佐(当時山風駆逐艦長心得)を第9号駆逐 艦艤装員長に任命(後任の山風艦長心得は中圓尾義三 少佐)[23]。6月19日より艤装員事務所での事務を開始す る[24]。8月30日に竣工した[14][27]。 \n 4年後の1928年(昭 和3年)8月1日附で、「第九号駆逐艦」は「旗風」と改 名された[1][29]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦檜:進水日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250703T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250704T150000Z UID:219649840875 DESCRIPTION: 丁型一等駆逐艦第5502号艦として横須賀工廠 で建造された。1944年3月4日起工、7月4日に進水、9月30日 に竣工した。就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高 間完少将・海軍兵学校41期)に編入。燃料ポンプの歯車 破損の修理を行った上で[2]瀬戸内海に回航され訓練に 従事する。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦雄竹:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250703T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250704T150000Z UID:301111889510 DESCRIPTION: 瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に 移動してきた第十一水雷戦隊本体と舞鶴で合同。5月29 日には高間少将の巡視を受けた[4]。空襲から逃れるた め、6月に小浜湾に移動[5]。7月15日付で特殊警備艦とな り舞鶴鎮守府部隊に編入され[6]、そのまま終戦を迎え た。\n 同年10月5日除籍。12月1日特別輸送艦に指定され 、復員輸送に従事。その後、賠償艦として1947年(昭和2 2年)7月4日青島で米国へ引渡しされた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦榧:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250704T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z UID:291492499690 DESCRIPTION: 1945年12月1日に特別輸送艦に指定され、復員 輸送に従事、終了後は賠償艦として1947年(昭和22年)7 月5日にナホトカでソ連に引渡された。同日、「屹然た る、意志の固い」という意味のヴォレヴォーイ(ロシ ア語:Волевойヴァリヴォーイ)に改称され、7月7日、 艦隊水雷艇(駆逐艦のこと)として第5艦隊へ編入され た。1949年2月14日には予備役にまわされた。6月17日には 除籍され、武装解除の上で標的艦に類別を変更、名称 も「第23標的艦」を意味するTsL-23(ЦЛ-23ツェエール・ ドヴァーッツァチ・トリー)に改められた。1953年4月23 日には太平洋艦隊に編入された。\n 1958年6月10日には 暖房船(бон-отопитель)に変更され、名称もOT-61 (ОТ-61オテー・シヂスャート・アヂーン)となった。1 959年8月1日付けで退役し、解体のため資金資産局への引 き渡された。1959年9月2日には海軍より除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦椎:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250704T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z UID:156995170338 DESCRIPTION: 5月20日付で第三十一戦隊(鶴岡信道少将・ 海兵43期)第四十三駆逐隊に編入される[5]。6月5日、豊 後水道で訓練中に触雷して損傷。7月24日には平生で回 天発射訓練中にP-51 と交戦し、損傷はしなかったものの 戦死者を出した[6]。\n 終戦時は無傷で呉にあり、同地 にて8月17日にアメリカ海軍へ引き渡され、武装解除を 受けた。10月25日から外地からの復員輸送に従事した。1 2月1日付けで正式に特別輸送艦に指定され、翌昭和21年1 2月13日までの間に、沖縄~日本を含め20回以上の復員輸 送に従事した。\n 1947年(昭和22年)7月5日、ナホトカ で賠償艦としてソ連に引渡された。艦名は自由な(も しくは無料の、あるいは生意気な)という意味のヴォ ーリヌイ(ロシア語:Вольныйヴォーリヌィイ)に改 められ、ソ連海軍で駆逐艦に相当する艦隊水雷艇(эс кадренный миноносец)に分類された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦薄雲:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250704T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z UID:375377550378 DESCRIPTION: 1944年(昭和19年)7月5日、駆逐艦3隻(第7駆 逐隊《曙、潮》、第18駆逐隊《薄雲》)と輸送船4隻( 太平丸、梅川丸、笠戸丸、第二号新興丸)で編制され た「キ504船団」は小樽港を出発[59][60]。7月7日16時14分、 オホーツク海を航行中の「キ504船団」は米潜水艦「ス ケート」 (USS Skate\, SS-305)に襲撃され、「薄雲」は被雷 ・沈没した[61]。若杉駆逐艦長を含め全乗組員267名戦死[ 62]。「潮」でも下士官1名が戦死[63]。日本側沈没地点記 録北緯47度36分 東経148度10分[64]。米軍による沈没地点記 録北緯47度43分 東経147度55分。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦響:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250704T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z UID:267643308755 DESCRIPTION: 1945年4月20日付で第二水雷戦隊は解隊。5月5 日付で第7駆逐隊も解隊される[95]。「響」は警備駆逐艦 に指定され[96]、同日附で編成された第一海上護衛艦隊 第一〇五戦隊に編入された。5月16日に呉を出港し、5月2 6日に舞鶴へ到着した[97]。その後6月26日に舞鶴を出港し て七尾湾経由、7月1日に新潟港沼垂岸壁へ回航されて防 空砲台となった[98]。また、新潟近海にも投下された機 雷の掃海に関する講習や訓練に従事し、乗員は疎開作 業の手伝いなども行った[99][100]。\n 終戦後、9月1日に 舞鶴に回航されて武装解除の上で復員輸送艦に指定さ れ、復員輸送に従事する[99]。\n 復員輸送艦の任務を 解かれたあとは特別保管艦として長浦港に係留され[110] 、抽選の結果、賠償艦としてソビエト連邦に引き渡さ れることとなった[99]。1947年7月5日、ナホトカ[99][111]で ソ連側に引き渡された。7月7日にはウラジオストクへ回 航され、ソ連海軍太平洋艦隊第5艦隊に編入された。7月 22日にはヴェールヌイ(Верный ヴィェールヌィイ) と改称された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦子日:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250704T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z UID:145667582810 DESCRIPTION: 1942年5月、「子日」以下第一水雷戦隊(阿武 隈、第6駆逐隊《暁、響、雷、電》、第21駆逐隊《若葉 、初春、子日、初霜》、第7駆逐隊《潮、曙、漣》)は 北方部隊(指揮官:第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将 :旗艦「那智」)に編入[45]。アリューシャン方面作戦 に従事することになった。その後、「子日」は水上機 部隊を護衛し、アッツ島湾外の哨戒活動を行うことに なった。\n  7月5日、第21駆逐隊(若葉、初霜)は輸送 部隊の護衛を命じられて水上機部隊から分離する中、 「子日」は6月21日に撃沈を報告した潜水艦から機密文 書を回収するため、この作業に従事していた[56][57]。 だが目標の沈没潜水艦を発見できず、水上機部隊と合 流するためアガッツ島南方を北上する[52]。当時のアッ ツ島方面は濃霧のため、水上偵察機の発進もできなか ったという[57]。だがこの時、同島ドッグ岬沖において 米潜水艦トライトン (USS Triton\, SS-201)が「子日」を雷撃 した[52][58]。12時50分、トライトンの発射した魚雷1本が 「子日」の右舷中央部に命中[59]、艦体は前部と後部に 分断され、「子日」は轟沈した[59]。寺内艦長等は転覆 した「子日」の艦体に登ると、「子ノ日万歳」を唱え たのち、行方不明となった(戦死認定)[59]。北方の低 温のため188名が戦死し、本艦は初春型駆逐艦最初の沈 没艦となった[60]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦霰:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250704T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z UID:276025822658 DESCRIPTION: 1942年7月5日未明、千代田、あるせんちな丸 はキスカ島キスカ湾に入港した[35]。第18駆逐隊3隻(不 知火〔司令駆逐艦〕、霞、霰)はキスカ島沖で濃霧の ため仮泊中、ハワード・W・ギルモア艦長が指揮する米 潜水艦グロウラー(USS Growler\, SS-215)から襲撃された[36 ][37]。\n グロウラーの発射した魚雷1本が霰の左舷前檣 下に命中し、前部魚雷発射管を吹き飛ばされた霰は主 砲と残された魚雷発射管で反撃を試みたが、成功しな かった[39]。さらにもう1本魚雷を撃ち込まれた[40]霰の 船体はV字に折れたのち、沈没した[39]。104名が戦死した 。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦楓:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z UID:314809352617 DESCRIPTION: 1945年12月1日付で特別輸送艦となり復員輸送 に従事する。1947年7月6日、上海で中華民国(台湾)に 賠償艦として引き渡され、接二号と仮命名された後、 衡陽(ホン・ヤン)と正式に命名された。国共内戦中 の1949年5月に淡水に移動し、10月1日に訓練艦隊に編入さ れて練習艦となった[15]。しかし、機関の状態がよくな く放置され、再武装もされなかった[15]。1960年に除籍後 、解体された[15]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦初梅:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z UID:265139835700 DESCRIPTION: 1945年6月28日舞鶴付近で敵機の攻撃を受け損 傷した。7月30日、小浜湾で触雷し着底した「榎」の救 援中、小浜で3回にわたり空襲を受け損傷、そのまま舞 鶴で終戦を迎えた。10月5日除籍。12月1日特別輸送艦に 指定され、復員輸送に従事。\n その後、賠償艦として 1947年(昭和22年)7月6日に、上海で中国に引渡され、接 三号と仮命名された後、信陽(シンヤン)と正式に命 名された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦帆風:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z UID:260905666980 DESCRIPTION: 1943年(昭和18年)7月1日、船団護衛中にマカ ッサル海峡で米潜水艦スレッシャー(USS Thresher\, SS-200)の 雷撃で損傷し、マカッサルで応急修理後10月18日までス ラバヤで修理を行った。\n 1944年(昭和19年)7月6日、 米潜水艦パドル(USS Paddle\, SS-263)の雷撃によりセレベス 海サンギ島西岸沖にて戦没した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦五月雨:進水日(1935) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z UID:224120510251 DESCRIPTION:白露型駆逐艦6番艦「五月雨」は浦賀船渠で1934 年(昭和9年)12月19日に起工し、1935年(昭和10年)7月6 日進水、1937年(昭和12年)1月29日に竣工した[2]。横須 賀鎮守府籍[3]。機関部は川崎造船所で製造されたのち 、浦賀に海上輸送された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦敷波:起工日(1928) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z UID:531976104615 DESCRIPTION: 舞鶴工作部で建造。1928年7月6日に起工、1929 年6月22日に進水。同年12月24日に竣工した。一等駆逐艦 に類別された。「磯波」「浦波」「綾波」と第19駆逐隊 (第2艦隊第2水雷戦隊)を編成した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦雪風:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z UID:805465276854 DESCRIPTION: 終戦後は復員輸送艦となった。当初、電探 や主砲塔は砲身を撤去したのみで装備されており、魚 雷発射管跡に便乗者用仮設構造物を増設していた[310]。 1945年末に旧舞鶴工廠で前後の砲塔を撤去し、便乗者用 仮設ハウスを増設した[310]。\n 1946年12月30日、雪風は 特別保管艦に指定され[318]、戦時賠償艦として連合国へ 引き渡される事となった[319]。乗組員たちは最後まで入 念に整備を行い、連合国側から「敗戦国の軍艦でもか くも見事に整備された艦を見た事が無い。まさに驚異 である」と感嘆された[320]。仮設乗組施設等は撤去され た[321]。\n 1947年7月3日、雪風は上海に到着、7月6日に 中華民国に引き渡されて丹陽(タンヤン)(DD-12)と改名さ れた[322]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦新月:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z UID:247383131810 DESCRIPTION: 1943年7月4日、コロンバンガラ島への輸送任 務のため第一回輸送隊(指揮官金岡国三第22駆逐隊司令 [70]:第22駆逐隊《長月、皐月》、新月、夕凪)と、7月5 日出撃予定の第二回輸送隊(第11駆逐隊《天霧、初雪》 、第30駆逐隊《望月、三日月》)が編制され、第一回輸 送隊はブインを出撃する[71]。\n 7月5日23時5分、「新月 」はレーダーで左舷方向に敵艦隊と思しき艦影を探知 し[82][83]、左舷砲雷戦にて南下する[84]。谷風水雷長に よれば、当夜はスコールが激しかったという[5]。23時18 分、支援隊(新月、谷風、涼風)はUターンし、再びレ ーダーで米艦隊をとらえた[85][86]。 第36.1任務群も23時36 分に任務群旗艦の軽巡ホノルル (USS Honolulu\, CL-48) がレ ーダーで複数の目標を探知した[85]。エインスワース少 将は、まず砲撃を行って混乱させてから雷撃を行う戦 法を採った[87]。23時46-48分、支援隊は右舷方向に巡洋艦 を含む米艦隊を発見する[88]。ちょうどスコールが晴れ た頃だった[5]。23時52分、秋山少将は指揮下の全駆逐艦 に全軍集結を下令し、第36.1任務群に対して魚雷戦に持 ち込もうとしていた[89][90]。だが、攻撃は第36.1任務群 に遅れをとった[91]。23時56分、第36.1任務群のホノルル 、ヘレナ (USS Helena\, CL-50) およびセントルイス (USS St. Lou is\, CL-49)は6300mで射撃を開始、初弾から「新月」に15セ ンチ砲弾を命中させた[92][93]。「新月」では舵が故障し 、火災が発生した[94][95]。艦橋にも命中弾があり、反撃 もしなかった[92]。\n 7月6日0時11分に「我速力26ノット 」を報告[96][97]。このあと西方へ漂流して消息を絶ち、 「新月」は沈没と認定された[98]。駆逐艦長金田清之中 佐以下290名が戦死[99]。秋山少将以下第三水雷戦隊司令 部も全滅した[68]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦霜月:起工日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250705T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z UID:557079062963 DESCRIPTION: 1941年(昭和16年)度(マル急計画)仮称第36 0号艦[7]。三菱重工業長崎造船所で1942年(昭和17年)7月 6日に起工[7]。1943年(昭和18年)4月7日、進水[7]。\n 7 月5日、1943年(昭和18年)1月18日の雷撃で大破して艦首 切断状の秋月型1番艦「秋月」が長崎に入港してきた[11] 。同艦の修理を実施するにあたり、当初は1944年(昭和1 9年)1月末に修理が終わるスケジュールが立てられてい たが[12]、復旧工事を急ぐため「霜月」の75番フレーム (船首楼最後部)[13]より前を切断し、「秋月」と結合 させた[12]。その甲斐あって、「秋月」は10月31日に修理 が終わり、早期に戦列に復帰した[12]。この工事の影響 により、本艦の艦首はもう一度作り直されている。\n  1944年(昭和19年) 3月31日、竣工[7]。本籍を横須賀鎮守 府と定められる[18]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦玉波:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250707T150000Z UID:127903062069 DESCRIPTION: 1943年11月5日にラバウルは第38任務部隊(フ レデリック・シャーマン少将)の空襲を受ける(ラバ ウル空襲)。島風とともに翔鶴を護衛してトラックに 進出[14]。短期間船団護衛に従事の後、12月16日に重巡洋 艦最上を護衛してトラックを出港して12月21日に呉に帰 投し、修理に入った[15]。\n 1944年(昭和19年)1月17日 に修理を終えると横須賀に回航され、高雄、空母千代 田、瑞鳳を護衛してトラックに進出する[16]。しかし、2 月5日のクェゼリンの玉砕によりアメリカ軍の脅威が差 し迫り、連合艦隊はトラックからの総引き揚げに決し た。\n 7月7日未明2時ごろ、北緯14度19分 東経117度57分[2 1]のマニラ湾口西方海域を航行中、アメリカの潜水艦ミ ンゴ (USS Mingo\, SS-261) を探知、ミンゴもレーダーにより4 つの目標を探知した[22]。「吹雪型駆逐艦」、すなわち 玉波が推定23ノットの速力で向かってきていると判断し た後、潜航してさらに観測を続けた[22]。12発に及ぶ爆 雷攻撃をやり過ごした後、艦尾発射管から魚雷を4本発 射[23]。しかし、これは命中しなかった[23]。1時間後に 体勢を立て直し、艦首発射管から魚雷を4本発射[24]、う ち3本が命中して玉波は艦首から沈没していった[24]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦長月:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250706T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250707T150000Z UID:147512328780 DESCRIPTION: 1943年(昭和18年)6月30日、米軍はレンドバ 島に上陸を開始、ニュージョージア島の戦いが始まる 。当時の外南洋部隊水上部隊(指揮官秋山輝男第三水 雷戦隊司令官)は、ラバウルに秋月型駆逐艦/旗艦「新 月」および「望月、皐月、夕凪」、ブカに「天霧、初 雪」、ブインに「長月、水無月、三日月」が停泊して いた[43]。\n 7月5日、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中 将は増援部隊全力によるコロンバンガラ島輸送を命じ 、秋山三水戦司令官は新たに陽炎型駆逐艦2隻(浜風、 谷風)と白露型駆逐艦1隻(涼風)を編制に加える[43]。 秋山少将直率隊(新月、涼風、谷風)、第一次輸送隊 (望月、三日月、浜風)、第二次輸送隊(天霧、初雪 、長月、皐月)という部署であった[44]。同日夕刻、第 三水雷戦隊はショートランド泊地を出撃、コロンバン ガラ島到着直前の2348よりウォルデン・L・エインズワー ス少将率いる米艦隊(巡洋艦3、駆逐艦4)と交戦する( クラ湾夜戦)[44]。「新月、涼風、谷風、天霧、初雪」 が砲戦魚雷戦を展開する中、「長月、皐月」は揚陸地 へ向かうも7月6日0046に「長月」は座礁してしまう[44]。 座礁地点で「長月」搭載の物資兵員を揚陸後、「皐月 」による「長月」曳航を試みたが失敗[44]。「皐月」は 午前4時以降作業を中止して本来の揚陸地へ向かい、そ の後コロンバンガラ島を後にした[45]。「長月」は昼間 の空襲により損傷を受け、放棄されるに至った[44]。7月 7日、座礁中の「長月」はニュージョージア方面防備部 隊に編入[47]。翌8日、第22駆逐隊司令駆逐艦は「皐月」 に変更された[48]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦橘:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250707T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250708T150000Z UID:104845995301 DESCRIPTION: 仮称5511号艦、橘型(改松型)駆逐艦の1番艦 として横須賀海軍工廠で建造された。1944年7月8日起工 、10月14日に進水、1945年1月20日に竣工した。就役後、訓 練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期 )に編入。瀬戸内海に回航され、1945年(昭和20年)3月1 5日付で「椿」「桜」「楢」「欅」「柳」とともに第五 十三駆逐隊を編成する[2]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦涼風:起工日(1935) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250708T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250709T150000Z UID:847586294971 DESCRIPTION: 1935年(昭和10年)6月20日、日本海軍は浦賀 船渠で建造予定の駆逐艦を「涼風」と命名した[2][4]。\n  同年7月9日、「涼風」は浦賀船渠で起工[6][7]。 本艦 は1937年(昭和12年)3月11日に進水[6][12]。\n 5月1日、日 本海軍は井上良雄少佐(吹雪型駆逐艦「響」艦長)を 涼風艤装員長に任命する(後任の響艦長は駆逐艦雷艦 長竹内虎四郎少佐)[13]。5月3日、浦賀船渠に涼風艤装 員事務所を設置し、事務を開始する[14]。 「涼風」は同 年8月31日に竣工した[6]。主要幹部は、井上良雄少佐( 駆逐艦長)、浅井秋生大尉(砲術長)、藤田淳大尉( 水雷長)、西村定男大尉(航海長)、斎藤孝吉機関大 尉(機関長)[15]。同日附で艤装員事務所を撤去する[16] 。\n 竣工と同時の8月31日附で姉妹艦3隻(海風、山風 、江風)の第24駆逐隊(5月31日附で編制。駆逐隊司令久 宗米次郎大佐)に編入[17][18]。定数4隻(海風、山風、 江風、涼風)を揃えた第24駆逐隊は第二次上海事変(昭 和12年)に投入され、中国大陸に進出した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦風雲:除籍日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250709T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250710T150000Z UID:152797123663 DESCRIPTION: 駆逐艦風雲は1944年7月10日附で 夕雲型駆逐艦 [109]、 帝国駆逐艦籍[110]から除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝凪:除籍日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250709T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250710T150000Z UID:235353879747 DESCRIPTION: 駆逐艦「朝凪」は1944年7月10日附で神風型駆 逐艦[56]、帝国駆逐艦籍[57]から除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦桜:戦没日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250710T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250711T150000Z UID:159426198112 DESCRIPTION: 1945年7月10日、アメリカ第38任務部隊(ジョ ン・S・マケイン・シニア中将)の接近が予期されると の情報が入り。「桜」は明石海峡に配備されていた「 欅」とともに退避することとなった[21]。避難先を友ヶ 島東岸に定め、7月11日5時を期して移動を開始する計画 が立てられる[22]。移動予定当日、「桜」は予定時刻に 航行を開始し、友ヶ島に向けて針路を定める回頭を終 えた直後の5時9分に艦後部に触雷して火災が発生[22][23] 。2、3分後には後部弾薬庫の爆発によってさらに左に傾 き、「桜」は艦首を水面上に露出させたのち横転して 沈没した[23][24]。沈没地点は大阪港中突堤灯台256度5.6マ イル地点と記録されている[25]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦弥生:進水日(1925) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250710T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250711T150000Z UID:269148008569 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。同年7月19日、 浦賀造船所で建造予定の駆逐艦に「第二十三駆逐艦」 の艦名が与えられる[6]。一等駆逐艦に類別[7]。\n 1924 年(大正13年)1月11日起工、4月24日艦名を「第二十三号 駆逐艦」に改正[8]、1925年(大正14年)7月11日進水、1926 年(大正15年)8月28日に竣工[9]。佐世保鎮守府に所属し た。1928年(昭和3年)8月1日附で「第二十三号駆逐艦」 は「彌生(弥生)」と改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦帆風:進水日(1921) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250711T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250712T150000Z UID:159069426170 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1920年11月30日起工、192 1年7月12日進水。1921年12月22日に竣工した。一等駆逐艦 に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。\n 1922年(大正11 年)12月、同型艦「羽風」「秋風」「太刀風」とともに 第4駆逐隊を編成し、第1水雷戦隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦三日月:進水日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250711T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250712T150000Z UID:110255499673 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1925年(大正14 年)2月16日、佐世保にて建造予定の睦月型駆逐艦は「 第三十二号駆逐艦」と命名される[3]。なお同日附で妙 高型重巡洋艦「足柄」と「羽黒」も命名されている[4] 。同日附で「足柄、羽黒」は一等巡洋艦に、「第32号駆 逐艦」は一等駆逐艦に類別された[5]。 「第32号駆逐艦 」は佐世保海軍工廠で同年8月21日起工、1926年(大正15 年)7月12日進水、1927年(昭和2年)5月5日に竣工[6]。佐 世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日附で「 第32号駆逐艦」は「三日月」と改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦橘:戦没日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250713T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250714T150000Z UID:938409826141 DESCRIPTION: 1945年7月14日、折から日本本土への最終攻撃 作戦を行っていた第38任務部隊(ジョン・S・マケイン ・シニア中将)は、朝から艦載機を飛ばして北海道お よび東北地方の市街や港湾施設、飛行場、艦船を片っ 端から攻撃していった。空襲を受けるや否や、錨のチ ェーンを切断して外洋に出ようとしたが、7時20分ごろ に被弾して船体中央部を切断し、葛登支岬灯台の南東 約3海里の地点で右に倒れて沈没していった[10]。乗員の うち156名が戦死した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦舞風:竣工日(1941) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250714T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250715T150000Z UID:275730232032 DESCRIPTION: マル4計画、仮称第114号艦として藤永田造船 所で建造開始。1940年(昭和15年)4月22日起工[3]。 1941年 (昭和16年)2月5日、「舞風」と命名され[1]、一等陽炎 型として登録される[4]。 同年3月15日進水[3]。 日本海軍 は4月10日附で、神風型駆逐艦7番艦「疾風」艦長[5]、吹 雪型駆逐艦5番艦「叢雲」艦長[6]等を歴任した中杉清英 中佐を、舞風艤装員長に任命する(後任の叢雲艦長は 東日出夫少佐)[7]。4月18日、藤永田造船所に艤装員事 務所を設置[8]。 \n 7月15日竣工[3]。同日附で艤装員事 務所を撤去[9]。中杉は制式に舞風駆逐艦長(初代)と なる[10]。同日附で横須賀鎮守府籍[11]。 LOCATION: END:VEVENT END:VCALENDAR