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2025/07/07

駆逐艦玉波:戦没日(1944)

 1943年11月5日にラバウルは第38任務部隊(フレデリック・シャーマン少将)の空襲を受ける(ラバウル空襲)。島風とともに翔鶴を護衛してトラックに進出[14]。短期間船団護衛に従事の後、12月16日に重巡洋艦最上を護衛してトラックを出港して12月21日に呉に帰投し、修理に入った[15]。  1944年(昭和19年)1月17日に修理を終えると横須賀に回航され、高雄、空母千代田、瑞鳳を護衛してトラックに進出する[16]。しかし、2月5日のクェゼリンの玉砕によりアメリカ軍の脅威が差し迫り、連合艦隊はトラックからの総引き揚げに決した。  7月7日未明2時ごろ、北緯14度19分 東経117度57分[21]のマニラ湾口西方海域を航行中、アメリカの潜水艦ミンゴ (USS Mingo, SS-261) を探知、ミンゴもレーダーにより4つの目標を探知した[22]。「吹雪型駆逐艦」、すなわち玉波が推定23ノットの速力で向かってきていると判断した後、潜航してさらに観測を続けた[22]。12発に及ぶ爆雷攻撃をやり過ごした後、艦尾発射管から魚雷を4本発射[23]。しかし、これは命中しなかった[23]。1時間後に体勢を立て直し、艦首発射管から魚雷を4本発射[24]、うち3本が命中して玉波は艦首から沈没していった[24]。