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2024/05/08

駆逐艦親潮:戦没日(1943)

 1943年(昭和18年)、ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が行われることになった[166][167]。第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は奇数回、陽炎型駆逐艦17番艦「萩風」(第4駆逐隊)および白露型駆逐艦7番艦「海風」(第24駆逐隊)は偶数回で、交互に駆逐艦輸送を行うことになった[168][169]。  5月7日17時、第15駆逐隊3隻(親潮、黒潮、陽炎)はブインから第五回の輸送に出発した[94]。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道を通って5月8日午前1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せると3時10分ごろに出港した[96]。3時49分、「親潮」はアウェイ島北西約0.6海里で触雷、航行不能になった[97]。  漂流中、米機の爆撃により、「親潮」の三番砲塔付近に爆弾1発が命中した[99]。「親潮」は南方に漂流し、同日17時5分にアンウィン諸島西端付近で沈没した[100]。「親潮」では91名の戦死者が出た(黒潮戦死者83名、陽炎戦死者18名)[97][101]。艦齢は約2年8ヶ月だった[102]。 第15駆逐隊司令牟田口大佐や東(親潮駆逐艦長)以下生存者は近くの島へ移動[103]。引き揚げ船でショートランド泊地に戻った[104]。