BEGIN:VCALENDAR
VERSION:2.0
PRODID:-//chikkutakku.com//RDFCal 1.0//EN
X-WR-CALDESC:GoogleカレンダーやiCalendar形式情報を共有シェ
 アしましょう。近所のイベントから全国のイベントま
 で今日のイベント検索やスケジュールを決めるならち
 っくたっく
X-WR-CALNAME:ちっくたっく
X-WR-TIMEZONE:UTC
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦榎：起工日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261013T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
UID:238514338549
DESCRIPTION:　仮称4812号艦、橘型（改松型）駆逐艦として
 舞鶴海軍工廠で建造された。1944年10月14日起工、1945年1
 月27日進水。同年3月31日に竣工した。竣工後、訓練部隊
 の第十一水雷戦隊（高間完少将・海軍兵学校41期）に編
 入。4月8日に瀬戸内海西部に回航し訓練に従事する。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦橘：進水日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261013T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
UID:265748346180
DESCRIPTION:　仮称5511号艦、橘型（改松型）駆逐艦の1番艦
 として横須賀海軍工廠で建造された。1944年7月8日起工
 、10月14日に進水、1945年1月20日に竣工した。就役後、訓
 練部隊の第十一水雷戦隊（高間完少将・海軍兵学校41期
 ）に編入。瀬戸内海に回航され、1945年（昭和20年）3月1
 5日付で「椿」「桜」「楢」「欅」「柳」とともに第五
 十三駆逐隊を編成する[2]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦清波：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:234714514045
DESCRIPTION:　駆逐艦「清波」は1943年10月15日附で夕雲型駆
 逐艦[89]、 第31駆逐隊[90]、 帝国駆逐艦籍[91]、 それぞれ
 から除籍された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦浜波：竣工日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:149605608615
DESCRIPTION:　1942年度（マル急計画）仮称第341号艦として
 舞鶴海軍工廠で建造。1942年4月28日に起工、1943年4月18日
 進水、1943年（昭和18年）10月15日に竣工して一等駆逐艦
 に類別され、舞鶴鎮守府籍となる。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦嵐：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:166558930532
DESCRIPTION:　駆逐艦嵐と萩風は1943年10月15日附で不知火型
 駆逐艦[222] 第4駆逐隊[223]、 帝国駆逐艦籍[224]、 それぞ
 れから除籍された。 
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦樺：起工日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:198925185623
DESCRIPTION:　仮称5500号艦、橘型（改松型）駆逐艦として
 藤永田造船所で建造された。1944年10月15日起工、1945年2
 月27日進水、5月29日に竣工した。竣工後、訓練部隊の第
 十一水雷戦隊（高間完少将・海軍兵学校41期）に編入。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦楡（にれ）：除籍日(1945)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:284357611624
DESCRIPTION:　1945年10月15日、橘型駆逐艦籍より除籍。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦竹：起工日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:301880743420
DESCRIPTION:　横須賀海軍工廠で建造[4]。1943年（昭和18年
 ）10月15日、起工。 1944年（昭和19年）1月25日「竹」と命
 名される[2]。同日附で駆逐艦一等松型に類別[5]。 3月28
 日、進水し、本籍を横須賀鎮守府に定められる[6]。 6月
 16日、竣工[4]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦初雪：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:224064040390
DESCRIPTION:　1943年10月15日、「初雪」は初雪型駆逐艦[77] 
 第11駆逐隊[78]、 帝国駆逐艦籍[79] のそれぞれから除籍
 された。なおネームシップの本艦沈没後も『初雪型駆
 逐艦』の名称は改定されずに用いられている。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦卯月：進水日(1925)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:299976411913
DESCRIPTION:　1923年（大正12年）度計画艦。同年7月19日、
 第二十五駆逐艦と命名される[4]。 1924年（大正13年）1月
 11日、第25駆逐艦（卯月）は東京石川島造船所で起工[5]
 。これは浦賀船渠で建造された第24駆逐艦（弥生）と同
 日の起工である[6]。 同年4月24日、艦名を「第二十五号
 駆逐艦」に改正[7]。 1925年（大正14年）10月15日進水[5]。
  1926年（大正15年）9月14日に竣工[5]。佐世保鎮守府に所
 属した。\n　1928年（昭和3年）8月1日附で「第二十五号
 駆逐艦」は「卯月」と改名された[1]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦三日月：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:297554628288
DESCRIPTION:　1943年10月15日、「三日月」は卯月型駆逐艦[33
 ]、 第30駆逐隊[34]、 帝国駆逐艦籍[35]、 それぞれから除
 籍された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦有明：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:258627942526
DESCRIPTION:　1943年旧有明型2隻（有明、夕暮）は10月15日
 附で初春型駆逐艦[151] 第27駆逐隊[152]、 帝国駆逐艦籍[15
 3]、 それぞれから除籍された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦萩風：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:235183512721
DESCRIPTION:　駆逐艦萩風と嵐は1943年10月15日附で不知火型
 駆逐艦[145] 第4駆逐隊[146]、 帝国駆逐艦籍[147]、 それぞ
 れから除籍された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦江風：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:297015110337
DESCRIPTION:　1943年10月15日、「江風」は白露型駆逐艦[244] 
 第24駆逐隊[245]、 帝国駆逐艦籍[246]、 それぞれから除籍
 された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦夕暮：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261014T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
UID:730176506795
DESCRIPTION:　駆逐艦「有明」と「夕暮」は1943年10月15日附
 で初春型駆逐艦[184]、 第27駆逐隊[185]、 帝国駆逐艦籍[18
 6]、 それぞれから除籍された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦夕立：起工日(1934)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261015T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261016T150000Z
UID:143519088182
DESCRIPTION:　白露型駆逐艦4番艦夕立は佐世保工廠で1934年
 （昭和9年）10月16日に起工された[3]。1936年（昭和11年）
 6月21日に進水[3][4]。 7月15日附で中原義一郎少佐は夕立
 艤装員長に任命される[5]。 8月1日、佐世保工廠に夕立
 艤装員事務所が設置され、11月1日附で中原は夕立初代
 駆逐艦長となる[7]。後任の夕立駆逐艦長は沢村成二少
 佐となる[8]。\n　1937年（昭和12年）1月7日、夕立は竣工
 した[3]。横須賀鎮守府籍[9]。白露型3番艦村雨(藤永田造
 船所建造)と同日附の竣工であった[10]。同日、白露型2
 隻（村雨、夕立）により第2駆逐隊が編制され、初代駆
 逐隊司令は田中頼三大佐[11]となる[注釈 3]。田中は第2
 駆逐隊司令駆逐艦を夕立に指定した[12]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦朧：戦没日(1942)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261016T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261017T150000Z
UID:895600181689
DESCRIPTION:　1942年（昭和17年）10月1日、「朧」は北方部
 隊（第五艦隊、司令長官細萱戊子郎中将：旗艦「那智
 」）に編入される[72][73]。当時、「朧」は横須賀にあっ
 て整備を急いだ[74]。 また第21駆逐隊司令駆逐艦の初春
 型駆逐艦「初春」が横須賀に戻り「朧」と合流[75]。10
 月11日午後、「初春、朧」は弾薬輸送物件を搭載して横
 須賀を出航した[76][77]。 占守島を経由して[78]、キスカ
 方面へ航海中の10月17日、キスカ島の北西30海里の北緯52
 度17分 東経178度08分座標: 北緯52度17分 東経178度08分の地
 点で2隻はアメリカ陸軍航空軍のB-26爆撃機の爆撃を受け
 た。「朧」は被弾により舵故障状態となり、さらに輸
 送中の弾薬が誘爆して12時35分に沈没した[79][80]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦磯波：起工日(1926)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261017T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261018T150000Z
UID:172713362089
DESCRIPTION:　本艦は浦賀船渠で建造。一等駆逐艦に類別
 された。1926年10月18日起工、翌年1927年11月24日進水。1928
 年（昭和3年）8月1日、「第43号駆逐艦」を「磯波」と改
 名。同年6月30日に竣工した。同年12月1日、「浦波」「
 敷波」「綾波」と第19駆逐隊（第2艦隊第2水雷戦隊）を
 編成した。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦谷風：起工日(1939)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261017T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261018T150000Z
UID:230128374789
DESCRIPTION:　陽炎型駆逐艦第14番艦谷風は仮称第30号艦と
 して藤永田造船所で1939年（昭和14年）10月18日起工[5]。
 藤永田造船所で建造された陽炎型は谷風以外に黒潮、
 夏潮、浦風、舞風があった。1940年（昭和15年）8月30日
 、「谷風（タニカゼ）」と命名[1]。陽炎型15番艦「野分
 」も同日附で命名される[1]。11月1日進水[5]。1941年（昭
 和16年）4月25日に竣工[5]。同日附で呉鎮守府籍[6]。4月28
 日附で第一航空艦隊・第一航空戦隊に編入されるが、5
 月1日をもって第17駆逐隊に編入された[7][8]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦天津風：進水日(1939)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261018T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261019T150000Z
UID:236168956489
DESCRIPTION:　舞鶴海軍工廠で1939年（昭和14年）2月14日起
 工[7]。8月25日、天津風（アマツカゼ）と命名された[1]
 。姉妹艦の時津風も同日附の命名であった[1]。同年10月
 19日進水、1940年（昭和15年）10月26日に竣工[7]。呉鎮守
 府籍。\n　天津風は後に次世代型駆逐艦島風で採用した
 高温高圧缶（ボイラー）をテストケースで搭載したこ
 とで知られる[4]。天津風の試作機関は小型の大出力機
 関を開発するのに必要な技術であった。ただし、天津
 風の機関出力は他の陽炎型と同じく5万2000馬力に設定さ
 れ、巡航時の燃料消費量もさほどかわらなかった[4]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦文月：起工日(1924)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261019T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261020T150000Z
UID:280561142819
DESCRIPTION:　1923年（大正12年）度計画艦。1924年（大正13
 年）10月20日、藤永田造船所で起工。当初の起工予定日
 は11月10日であったが、工事上の都合により変更された[
 5]。11月10日、制式に「第二十九号駆逐艦」と命名され
 る[6]。同日附で一等駆逐艦に類別[7]。 1926年2月16日に進
 水。7月3日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。1928年（
 昭和3年）8月1日附で「文月」と改名された[1]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦弥生：除籍日(1942)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261019T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261020T150000Z
UID:273583010222
DESCRIPTION:　1942年10月20日、駆逐艦「弥生（彌生）」は一
 等駆逐艦卯月型[49]、 帝国駆逐艦籍[3]、 第30駆逐隊[50]
 のそれぞれから除籍された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦早霜：進水日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261019T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261020T150000Z
UID:899495354477
DESCRIPTION:　1942年度（マル急計画）仮称第345号艦として
 舞鶴海軍工廠で建造、1943年（昭和18年）1月20日、起工[3
 ][4]。 7月31日、第345号艦は早霜と命名された[2]。早霜は
 夕雲型駆逐艦に類別された[10]。 早霜は10月20日に進水
 した[5]。同日附で横須賀鎮守府に所属される[11]。\n　19
 44年2月20日、早霜は竣工して海軍に引き渡された[16][15]
 。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦薄雲：起工日(1926)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261020T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261021T150000Z
UID:217693568074
DESCRIPTION:　1926年（大正15年）9月29日、建造予定の駆逐
 艦4隻にそれぞれ「第三十七号駆逐艦（のちの初雪）」
 、「第四十一号駆逐艦（〃薄雲）」、「第四十二号駆
 逐艦（〃白雲）」、「第四十三号駆逐艦（〃磯波）」
 の艦名が与えられる[7]。同日附で4隻は一等駆逐艦に類
 別される[8]。 「薄雲」は東京石川島造船所で同年10月21
 日に起工、1927年（昭和2年）12月26日に進水、1928年（昭
 和3年）7月26日に竣工[9]。「薄雲」の建造スケジュール
 は、姉妹艦3隻（東雲、白雲、磯波）とほぼ同一だった[
 10][11][12]。 竣工から一週間もたたない8月1日附で「第41
 号駆逐艦」は「薄雲」と改名される[5]。同年12月1日、
 第二艦隊・第二水雷戦隊・第12駆逐隊に編入された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦菫：起工日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261020T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261021T150000Z
UID:287494459671
DESCRIPTION:　仮称5520号艦、橘型（改松型）駆逐艦6番艦と
 して横須賀海軍工廠で建造された。1944年10月21日起工、
 12月17日進水。1945年3月26日に竣工した。竣工後、訓練部
 隊の第十一水雷戦隊（高間完少将・海軍兵学校41期）に
 編入。二番高角砲に不具合があって修理の後[2]、瀬戸
 内海に向かう。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦雷：進水日(1931)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261021T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261022T150000Z
UID:296282208070
DESCRIPTION:　「雷」は、浦賀船渠で1930年（昭和5年）3月7
 日起工される。1931年（昭和6年）10月22日進水。1932年（
 昭和7年）8月15日竣工する。1941年（昭和16年）2月から10
 月に石川島造船所で行われた特定修理では九三式探信
 儀と九一式方位盤を装備[3]。その他、二番煙突後方に2
 基装備されていた13ミリ連装機銃[4]の九六式二十五粍高
 角機銃への換装も計画されたが、供給問題により換装
 は実施されなかった[3]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦汐風：進水日(1920)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261021T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261022T150000Z
UID:132465739630
DESCRIPTION:　舞鶴海軍工廠で建造。1920年5月15日起工、同
 年10月22日進水。1921年7月29日に竣工した。一等駆逐艦に
 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦若葉：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261023T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
UID:262117551458
DESCRIPTION:　1944年10月下旬のレイテ沖海戦では、第五艦
 隊司令長官志摩清英中将が指揮する第二遊撃部隊（重
 巡2隻《那智、足柄》、軽巡《阿武隈》、第18駆逐隊《
 不知火、霞》、第7駆逐隊《潮、曙》、第21駆逐隊《若
 葉、初霜、初春》）に所属し、レイテ湾に突入する計
 画であった[63]。だが輸送任務のため、第21駆逐隊（若
 葉、初春、初霜）は志摩艦隊本隊より遅れて行動を開
 始する[64]。ミンドロ島東を南下、ミンダナオ島入口で
 志摩艦隊本隊と合流する事を目指していた[63]。 10月23
 日、航海中に救助した陸兵をマニラで上陸させると、
 補給を受けて南下を開始する[65]。 \n　だが10月24日午前
 8-9時、第21駆逐隊は米軍空母艦載機約20の空襲を受ける[
 63]。この戦闘で司令駆逐艦の「若葉」は直撃弾と至近
 弾による艦底損傷により浸水被害を受け[66]、沈没した[
 67]。沈没地点パナイ島西方北緯11度36分 東経121度36分[68]
 。第21駆逐隊司令石井汞大佐と二ノ方（若葉駆逐艦長）
 は生還した[69][70]。戦死30名（准士官以上1、下士官兵29
 ）、重軽傷（准士官以上7、下士官兵67）と記録されて
 いる[71]。 
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦望月：戦没日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261023T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
UID:661463773605
DESCRIPTION:　米軍が攻勢を強める中、第三水雷戦隊を基
 幹とする襲撃部隊はニューブリテン島各部、ニューギ
 ニア方面、北部ソロモン諸島方面への輸送作戦を続け
 た[81]。10月7日-8日、「天霧、望月、皐月」はスルミ輸
 送を実施した[81]。21日-22日、「天霧、望月」はブカ島
 輸送を実施した[81]。23日、「望月」は「卯月」と共に
 ニューブリテン島ジャキノット輸送のためラバウル（
 ニューブリテン島北部）を出撃した[81]。\n　10月23日、
 ジャキノットに米軍上陸との報告があり、南東方面艦
 隊はビスマルク諸島方面防備部隊指揮官に艦艇・航空
 部隊の出撃準備を命じた[82]。だが午前7時に攻撃準備を
 解除し、あらたに駆逐艦2隻によるジャキノット輸送を
 下令した[82]。第30駆逐隊司令沢村成二大佐は「望月」
 に座乗、同隊「望月、卯月」は陸戦隊約100名を輸送す
 べく同日16時15分にラバウルを出撃した[82]。24日0020ジャ
 キノットで揚陸中、空襲を受けた「望月」は被弾して
 沈没[82]。戦死者10名[83]。米軍記録による沈没地点 南緯
 5度42分 東経151度40分。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦満潮：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:845132410820
DESCRIPTION:　1944年10月22日、西村艦隊はブルネイを出撃し
 た[160]。 10月25日未明、第4駆逐隊（満潮、朝雲、山雲）
 以下西村艦隊はスリガオ海峡に突入していった。アメ
 リカ軍魚雷艇の攻撃を撃退したのち、西村艦隊はアメ
 リカ軍駆逐艦隊の魚雷攻撃を受けた。この攻撃で戦艦
 扶桑が航行不能となった（のちに爆沈）[165]。第4駆逐
 隊3隻（満潮、朝雲、山雲）は次々に被雷して戦闘不能
 となり、まもなく満潮と山雲は沈没した[166]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦朝雲：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:490120508838
DESCRIPTION:　1944年10月中旬以降の捷号作戦で第4駆逐隊（
 満潮、朝雲、山雲、野分）は戦艦「山城」「扶桑」、
 重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」と共に第一遊撃部
 隊第三部隊（西村艦隊）に所属してレイテ湾突入を目
 指した。\n　10月25日、西村艦隊はスリガオ海峡に突入
 したものの「時雨」を残して全隻撃沈された。「満潮
 」「山雲」に続く三番手に位置していた「朝雲」は、
 米軍駆逐艦の魚雷攻撃により艦首を喪失、低速で反転
 離脱を開始する[50]。だが2隻は追撃してきた米艦隊の砲
 撃を受け、砲雷撃を受けた「朝雲」は炎上[52]。「朝雲
 」軽巡洋艦デンバー、コロンビアの2隻にとどめを刺さ
 れた[53]。\n　総員退去後、「朝雲」は米巡洋艦及び駆
 逐隊の集中射撃を受けて沈没した[54]。さらに米駆逐艦
 は「朝雲」から脱出した内火艇も撃沈、乗組員は漂着
 して捕虜となった[55]。約200名が戦死し、また生存者25
 名がマニラ地区地上部隊に編入されたという記録が残
 っている[56]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦初月：戦没日(1942)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:303349408139
DESCRIPTION:　エンガノ岬沖海戦前の1944年10月25日18時40分
 、巡洋艦部隊からの索敵機は1隻の巡洋艦と2隻の駆逐艦
 を発見し、やがてレーダーでも3つの目標を探知するよ
 うになった[134]。目標が射程内に入るや否や、まずモー
 ビルが砲撃を開始いてウィチタも砲撃を開始した[134]。
 「初月」は突然の砲撃を受けたものの、すぐさま煙幕
 を張って26ノットの速力でジグザグ航行を行い敵弾をか
 わしつつ「敵水上艦艇ト交戦中」と打電[135]。2隻（五
 十鈴、若月）もこれに続いて北方への脱出を図った[136]
 [137]。やがて「初月」は反撃態勢を整えて巡洋艦部隊に
 単独で突進し、巡洋艦部隊は魚雷発射を警戒して2度に
 わたる回避運動を行った[134]。デュボース少将は駆逐艦
 で足止めを試みつつ、さらに砲撃を続けた[134]。「初月
 」では火災が発生したが、速力20ノット前後で反撃を続
 けた[137]。\n　遭遇して約1時間後、彼我の距離が約5\,400
 メートルに縮まったところで、サンタフェが照明弾を
 発射[134]。これによって更なる集中砲火を受けることと
 なった。「徐々に又慎重に」砲火を浴びせ続けた結果[1
 34]、20時45分頃には航行不能に陥る。駆逐艦ポーターフ
 ィールド (USS Porterfield\, DD-682) が止めを刺さんと接近し
 つつあったその時、アメリカ軍の記録では20時59分（56
 分とも）[137]、爆発を起こして艦首から沈没していった
 [138]。沈没地点は北緯20度24分 東経126度20分と記録され
 た[134]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦野分：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:180216395416
DESCRIPTION:　レイテ沖海戦において、第4駆逐隊は分散配
 備された。「野分」のみ単艦で第十戦隊（司令官木村
 進少将：旗艦矢矧）直属となり、第17駆逐隊（浦風、磯
 風、雪風、浜風）・夕雲型「清霜」と共に第一遊撃部
 隊（栗田艦隊）第二部隊（指揮官兼第三戦隊司令官鈴
 木義尾中将：戦艦金剛、榛名）に加わって参加した[162]
 。1944年10月25日未明のレイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦で
 西村艦隊は時雨1隻を残して全滅、この一連の戦闘にお
 いて、司令官白石万隆少将率いる第七戦隊（最上型重
 巡洋艦《熊野、鈴谷》、利根型重巡洋艦《利根、筑摩
 》）は大きな損害を受けた[170]。\n　その後、野分は筑
 摩の乗員救助を行い、筑摩を雷撃処分した（既に沈没
 していたともいわれる。）[176]。撤退する大和以下栗田
 艦隊本隊から遅れたため、10月25日の深夜にサンベルナ
 ルジノ海峡手前でウィリアム・ハルゼー・ジュニア提
 督率いる米高速戦艦部隊（ニュージャージー、アイオ
 ワ基幹、軽巡3隻、駆逐艦8隻）に捕捉される[177]。アメ
 リカ軍は野分を巡洋艦もしくは大型駆逐艦と判断して
 いた[178]。野分は米軽巡ヴィンセンス、ビロクシー、マ
 イアミ、駆逐艦オーエン、ミラーによるレーダー射撃
 を受け大破[179]、最後は駆逐艦の魚雷を受けて沈没した
 。艦長以下272名[180]全員が戦死した[181]。野分に乗艦し
 ていた120-130名の筑摩乗員[182]も、アメリカ軍に救助さ
 れた1名以外同じ運命を辿った[176]。アメリカ軍によれ
 ば、沈没地点北緯13度0分 東経124度54分。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦竹：除籍日(1945)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:141514128640
DESCRIPTION:　戦況悪化によって温存策が取られる事とな
 り、「竹」は第43駆逐隊各艦（榧、槇）等とともに屋代
 島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機す
 ることとなった[150][154]。近隣には僚艦（花月、桐、蔦
 ）も艤装繋留されていた[154]。樹木と網で偽装した3隻
 （竹、槇、榧）はついに攻撃される事なく[155][154]、8月
 15日の終戦時には航行可能な状態で残存した。「竹」は
 僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収され
 た後[156]、1945年10月25日に除籍[4]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦曙：起工日(1929)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:181053435800
DESCRIPTION:　「曙」は大阪市の藤永田造船所で建造され
 た。1929年10月25日に起工、1930年11月7日に進水、1931年7月
 31日に就役し[1]、一等駆逐艦に類別され、第2艦隊第7駆
 逐隊に編入された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦秋月：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:440273931864
DESCRIPTION:　捷一号作戦の発令を前にした1944年10月12日、
 「秋月」は呉に入港し10月14日まで出撃前の臨戦準備を
 行った。10月25日午前7時、秋月以下前衛艦隊は小沢治三
 郎中将が指揮する機動部隊本隊と合流した[182]。その1
 時間後、エンガノ岬沖海戦がはじまった。\n　秋月は午
 前8時25分から対空射撃を開始した[186]。午前8時50分に斜
 め後方からSB2Cヘルダイバーによる急降下爆撃[189]によ
 り艦中央部に被弾する[190]。缶室では高圧蒸気が噴出し
 、機関科70名(砲術科に応援を出したため規定82名以下)
 は第一缶室の3名を除き全滅した[191]。午前8時56分、艦
 中央より黒煙と火災が発生[190]。次の瞬間、酸素魚雷の
 誘爆による大爆発が起きた[192]。艦中央部に大孔が開き
 、周辺の艦構造物は軒並み消失して「秋月」は完全に
 停止、総員退避命令が出される[195]。\n　まもなく二つ
 に分断されて沈没した[196][197]。五十鈴戦時日誌では、0
 857「秋月眞中ヨリ折レル」　0859「秋月沈没」と記録し
 た[187]。沈没地点北緯18度15分 東経126度35分[23]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦山雲：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:333517709801
DESCRIPTION:　1944年10月中旬以降の捷号作戦で第4駆逐隊（
 満潮、朝雲、山雲、野分）は戦艦「山城」「扶桑」、
 重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」と共に第一遊撃部
 隊第三部隊（西村艦隊）に所属してレイテ湾突入を目
 指した。\n　10月25日、西村艦隊はスリガオ海峡に突入
 したものの「時雨」を残して全隻撃沈された。午前2時2
 0-30分頃、「満潮」-「山雲」-「朝雲」-「時雨」-「山城
 」-「扶桑」-「最上」という単縦陣の二番手に位置して
 いた「山雲」は、米軍駆逐艦隊が発射した魚雷の命中
 により航行不能となる[34]。西野（時雨駆逐艦長）によ
 れば、「満潮、山雲、朝雲」はほぼ同時に被雷、「山
 雲」は轟沈であったという[35]。全員が戦死したとされ
 る。生存者1名がマニラ地区地上部隊に編入されたとい
 う記録が残るが、その後の消息は不明[36]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦黒潮：進水日(1938)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261024T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
UID:138487139214
DESCRIPTION:　陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」は仮称19号艦と
 して藤永田造船所で1937年（昭和12年）8月31日に起工[3]
 。\n　1938年（昭和13年）4月15日、日本海軍は舞鶴海軍工
 廠で建造中の駆逐艦を『陽炎』、浦賀船渠の同型駆逐
 艦を『不知火』、藤永田造船所の本艦を『黒潮』、東
 京石川島造船所の測天型敷設艇2番艇を「白神」と命名
 する[5][1]。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦
 』が新設され、3隻（陽炎、不知火、黒潮）は同型に類
 別された[6]。 同年10月25日、「黒潮」は進水[3][7]。\n　1
 940年（昭和15年）1月20日、佐世保海軍工廠で陽炎型8番
 艦「雪風」が竣工[12]、呉へ回航される[13]。 「雪風」
 竣工から一週間遅れた1月27日、陽炎型3番艦「黒潮」は
 竣工[3][14]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦天津風：竣工日(1940)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261026T150000Z
UID:108623333796
DESCRIPTION:　舞鶴海軍工廠で1939年（昭和14年）2月14日起
 工[7]。8月25日、天津風（アマツカゼ）と命名された[1]
 。姉妹艦の時津風も同日附の命名であった[1]。同年10月
 19日進水、1940年（昭和15年）10月26日に竣工[7]。呉鎮守
 府籍。\n　天津風は後に次世代型駆逐艦島風で採用した
 高温高圧缶（ボイラー）をテストケースで搭載したこ
 とで知られる[4]。天津風の試作機関は小型の大出力機
 関を開発するのに必要な技術であった。ただし、天津
 風の機関出力は他の陽炎型と同じく5万2000馬力に設定さ
 れ、巡航時の燃料消費量もさほどかわらなかった[4]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦浦波：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261025T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261026T150000Z
UID:231283316737
DESCRIPTION:　太平洋戦争では、南方進攻、ミッドウェー
 海戦、ソロモン諸島・ニューギニアの諸作戦に参加。
 その後、南方で海上護衛、哨戒、輸送活動に従事した
 。1944年（昭和19年）10月26日、オルモック輸送（多号作
 戦）の帰途、パナイ島西方で米空母機の爆撃を受け戦
 没した。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦白雲：起工日(1926)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261026T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261027T150000Z
UID:252670870298
DESCRIPTION:　1926年（大正15年）9月29日、建造予定の駆逐
 艦4隻にそれぞれ「第三十七号駆逐艦（のちの初雪）」
 、「第四十一号駆逐艦（〃薄雲）」、「第四十二号駆
 逐艦（〃白雲）」、「第四十三号駆逐艦（〃磯波）」
 の艦名が与えられる[6]。同日附で4隻は一等駆逐艦に類
 別される[7]。 「白雲」は藤永田造船所で同年10月27日に
 起工、1927年（昭和2年）12月27日に進水、1928年（昭和3年
 ）7月25日に竣工[8]。「白雲」の建造スケジュールは、
 姉妹艦「東雲、薄雲、磯波」とほぼ同一だった[9][10][11]
 。1928年（昭和3年）8月1日附で「第42号駆逐艦」は「白
 雲」と改名される[1]。同日、第12駆逐隊に編入。同年12
 月1日、第12駆逐隊は第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦不知火：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261026T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261027T150000Z
UID:143255441335
DESCRIPTION:　1944年10月26日夕刻、パナイ島北東で第16戦隊
 の軽巡鬼怒、駆逐艦浦波が空襲を受け沈没した[93]。左
 近允尚正16戦隊司令官からの救援要請を受けた草鹿龍之
 介参謀長は、第5艦隊・第1水雷戦隊に鬼怒曳航艦の派遣
 を求めた[94]。しかし同日26日日没後、不知火は鬼怒の
 救助に向かうが発見できず（鬼怒は26日17時20分沈没）
 、帰途についた[95]。その途上の27日朝、米空母艦載機
 の攻撃によりフィリピン諸島シブヤン海にて沈没、井
 上司令・荒艦長以下全員が戦死した。 
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦藤波：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261026T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261027T150000Z
UID:249094368972
DESCRIPTION:　1944年10月18日、捷一号作戦発動に伴って栗田
 中将の第二艦隊はリンガ泊地から出動し、ブルネイ湾
 （英語版）で補給の後、10月22日に出撃した。10月24日か
 らのレイテ沖海戦では第一部隊に属して戦闘に参加し
 たが、10月25日、藤波は航行不能となった重巡鳥海の乗
 組員を救助後、鳥海を雷撃処分して単艦でコロン島に
 帰投することとなった。\n　その途中の10月27日、藤波
 は早霜がセミララ島の浅瀬に擱座して航行不能との報
 を受け救援に向かったが、第38任務部隊（マーク・ミッ
 チャー中将）の艦載機の攻撃によりカラミアン諸島北
 方のシブヤン海で戦没した。藤波、鳥海ともに1人の生
 存者もいなかった。\n　早霜はその後放棄され後にアメ
 リカ軍の調査を受けるが、早霜の船体がその後どうな
 ったかは定かではない。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦欅：処分日(1947)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261028T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261029T150000Z
UID:117689256636
DESCRIPTION:　その後特別輸送艦となり復員輸送に従事す
 る。1946年（昭和21年）10月17日には、小笠原諸島に帰島
 する欧米系島民129名を父島まで輸送した[10]。1947年（昭
 和22年）7月5日にアメリカへ賠償艦として横須賀港で引
 き渡され、10月29日に北緯34度44分 東経140度01分の地点で
 標的艦として処分された[11]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦楓：竣工日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261029T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261030T150000Z
UID:832403464885
DESCRIPTION:　丁型一等駆逐艦第5505号艦として横須賀海軍
 工廠で建造された。1944年3月4日起工、7月25日に進水、10
 月30日に竣工した。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦松風：進水日(1923)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261029T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261030T150000Z
UID:493947533094
DESCRIPTION:　第七駆逐艦（松風）は1922年（大正11年）12月
 2日に起工[11]。 1923年（大正12年）10月30日、進水[11]。 19
 24年（大正13年）4月1日、初代「松風」は除籍[6]。数日
 後の4月5日、第七駆逐艦（松風）は竣工[11]。竣工直後
 の4月24日に、第七駆逐艦は第七号駆逐艦に改名[2][4]。
 さらに1928年（昭和3年）8月1日附で第七号駆逐艦は「松
 風」と改名された[2][1]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦追風：竣工日(1925)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261029T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261030T150000Z
UID:232026053309
DESCRIPTION:　第十一駆逐艦（追風）は浦賀船渠で建造。 
 本艦は1923年（大正12年）3月16日、起工[6]。関東大震災
 を経て1924年（大正13年）11月27日に進水[6]。 1925年（大
 正14年）4月24日、第十一駆逐艦は第十一号駆逐艦と改称
 [10]。 10月30日、竣工[6]。竣工時の艦名は第十一号駆逐
 艦で、1928年（昭和3年）8月1日附で「追風」と改称した[
 2][11]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦朧：竣工日(1931)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261030T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261031T150000Z
UID:242594162227
DESCRIPTION:　「朧」は佐世保海軍工廠で建造された[4]。19
 29年（昭和4年）11月29日に起工[4]。1930年（昭和5年）11月
 8日午前9時30分に進水[5]。 1931年（昭和6年）4月1日、日
 本海軍は伊藤皎少佐（前職、駆逐艦「松風」駆逐艦長
 ）を朧艤装員長に任命[6]。同日附で武田喜代吾少佐も
 潮艤装員長に任命されている[6]。 本艦は10月31日に就役
 [4]。同日附で柏木英中佐を司令とする第7駆逐隊も編制
 された[7]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦大潮：竣工日(1937)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261030T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261031T150000Z
UID:999758140547
DESCRIPTION:　1935年（昭和10年）9月6日、日本海軍は佐世保
 海軍工廠で建造予定の駆逐艦を「朝潮」、舞鶴要港工
 作部で建造の駆逐艦を「大潮」と命名した[3][6]。同日
 附で朝潮型駆逐艦が新設される[7]。 本艦は舞鶴海軍工
 廠で1936年（昭和11年）8月5日に起工[8][9]。 1937年（昭和1
 2年）4月19日に進水[9][10]。舞鶴要港部司令官中村亀三郎
 中将は『のどかなる　さくらさきそう　春の海に　し
 ぶきたてゆく　ふなおろし見る』という自作の和歌を
 記念として贈った[4]。 7月5日、舞鶴海軍工廠に大潮艤
 装員事務所を設置[14]。 7月7日、中国大陸で盧溝橋事件
 が勃発、上海方面に派遣する駆逐艦が必要になったた
 め、艤装工事を急いだ[4]。\n　1937年10月5日、山代艤装
 員長は正式に大潮初代駆逐艦長となる[15]。本艦は10月31
 日に竣工[16]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦若葉：竣工日(1934)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261030T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261031T150000Z
UID:869580844386
DESCRIPTION:　駆逐艦「若葉」（第61駆逐艦）は佐世保工廠
 で1931年（昭和6年）12月12日に起工した[6][7]。初春型2番
 艦「子日」（12月15日起工）より3日はやい起工だった[8]
 。 1932年（昭和7年）8月1日、初春型駆逐艦1番艦に「初
 春」、同型2番艦に「子日」、同型3番艦（本艦）に「若
 葉」の艦名が与えられる[1][9]。建造途中で同型艦「初
 春」の復元性能不良が判明し、改善工事を施すことに
 なる。このため進水は浦賀船渠で建造中の初春型4番艦
 「初霜」（昭和8年1月31日起工）より約4ヶ月遅れた[12]
 。 1934年（昭和9年）3月18日に進水[6][13]。 \n　6月5日、
 佐世保海軍工廠に艤装員事務所を設置[15]。 10月10日、
 則満艤装員長は制式に若葉駆逐艦長（初代）となる[16]
 。 10月31日に竣工[6]。同日附で若葉艤装員事務所も撤去
 [17]。「初霜」（9月27日竣工）より約1ヶ月遅れての竣工
 だった[12]。「若葉」は第21駆逐隊（司令坂野民部大佐
 ）に編入され、同隊は定数4隻（初春、子日、初霜、若
 葉）を揃える。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦満潮：竣工日(1937)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261030T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261031T150000Z
UID:301809860885
DESCRIPTION:　1935年（昭和10年）9月28日、日本海軍は藤永
 田造船所で建造の駆逐艦を満潮、神戸川崎造船所で建
 造の駆逐艦を荒潮と命名した[1]。満潮は藤永田造船所
 において同年11月5日に起工された[4]。 1937年（昭和12年
 ）3月15日に進水[4][5]。のちに僚艦となる白露型駆逐艦
 涼風より4日遅い進水だった[6]。 7月6日、海軍は吹雪型
 駆逐艦暁艦長佐藤康夫中佐を満潮艤装員長に任命した
 （後任の暁艦長篠田勝清中佐は、レイテ沖海戦時の戦
 艦山城艦長）[7]。 7月13日、藤永田造船所に満潮艤装員
 事務所を設置[8]。 \n　1937年10月31日に竣工した[4]。佐藤
 満潮艤装員長も制式に満潮初代艦長となる[9]。舞鶴工
 廠で建造された朝潮型2番艦大潮とは進水は満潮の方が
 早く、竣工は同日であった[10]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦望月：竣工日(1927)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261030T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261031T150000Z
UID:272627179848
DESCRIPTION:　1923年（大正12年）度計画艦。1925年（大正15
 年）6月25日、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦に「第三十
 三号駆逐艦」の艦名が与えられた[3]。なお同日附で「
 第35号駆逐艦(吹雪)」、「第40号駆逐艦(東雲)」も命名さ
 れている[4]。3隻とも一等駆逐艦に類別[5]。「第33号駆
 逐艦」は1926年3月23日に起工、1927年（昭和2年）4月28日
 に進水。10月31日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。1928
 年（昭和3年）8月1日に「第33号駆逐艦」は「望月」と改
 名された[1]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦江風：進水日(1936)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261031T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261101T150000Z
UID:333576365672
DESCRIPTION:　本艦は藤永田造船所で1935年（昭和10年）4月2
 5日に起工[11]。 1936年（昭和11年）11月1日に進水した[11][
 12]。12月1日、日本海軍は初春型駆逐艦4番艦「初霜」駆
 逐艦長山田雄二中佐を江風艤装員長に任命した[13]。 12
 月7日、藤永田造船所に江風艤装員事務所を、神戸川崎
 造船所に熊野艤装員事務所を設置する[14]。 1937年（昭
 和12年）4月30日、「江風」は竣工した[11]。山田江風艤
 装員長も制式に江風駆逐艦長（初代）となる[15]。佐世
 保鎮守府籍。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦谷風：進水日(1940)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261031T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261101T150000Z
UID:540495271739
DESCRIPTION:　陽炎型駆逐艦第14番艦谷風は仮称第30号艦と
 して藤永田造船所で1939年（昭和14年）10月18日起工[5]。
 藤永田造船所で建造された陽炎型は谷風以外に黒潮、
 夏潮、浦風、舞風があった。1940年（昭和15年）8月30日
 、「谷風（タニカゼ）」と命名[1]。陽炎型15番艦「野分
 」も同日附で命名される[1]。11月1日進水[5]。1941年（昭
 和16年）4月25日に竣工[5]。同日附で呉鎮守府籍[6]。4月28
 日附で第一航空艦隊・第一航空戦隊に編入されるが、5
 月1日をもって第17駆逐隊に編入された[7][8]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦長月：除籍日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261031T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261101T150000Z
UID:118175817637
DESCRIPTION:　1943年11月1日、駆逐艦「長月」は卯月型駆逐
 艦[51]、 第22駆逐隊[52]、 帝国駆逐艦籍[53] のそれぞれか
 ら除籍された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦初風：戦没日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261101T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261102T150000Z
UID:105269308663
DESCRIPTION:　1943年11月2日、初風は軽巡洋艦/第十戦隊旗艦
 阿賀野の指揮下でブーゲンビル島沖海戦に参加、重巡
 妙高と衝突し、米艦隊の集中砲火を受けて沈没した[3]
 。11月2日00時45分、時雨の敵艦隊発見報告をきっかけに
 約2時間におよぶ夜戦がはじまった。当時の隊形は、主
 隊（妙高、羽黒）が中央、第一警戒隊（川内、時雨、
 白露、五月雨）が主隊左前方、第二警戒隊は（阿賀野
 、長波、初風、若月）の順番で主隊右前方を航行して
 いた[68]。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、
 主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、妙高と艦位を
 失った初風の衝突を招いた[69]。妙高と初風の衝突時間
 は午前1時7分[69][68]。\n　艦首を失い、戦場に取り残さ
 れていた初風はアメリカ軍駆逐隊の集中砲火を浴び[70]
 、午前2時57分に南緯06度00分 東経153度58分地点で沈没し
 た[68]。艦長以下164名が戦死した。\n　翌朝、重巡羽黒
 からは僚艦妙高の前部左舷に初風の甲板がぶらさがっ
 ている光景が見られたという[72]。目撃した羽黒の下士
 官は「初風の額の皮」という表現を使っている[72]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦蔦：進水日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261101T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261102T150000Z
UID:201570872367
DESCRIPTION:　仮称5514号艦、橘型（改松型）駆逐艦3番艦と
 して横須賀海軍工廠で建造された。1944年7月31日起工、1
 1月2日進水。1945年2月8日に竣工した。竣工後、訓練部隊
 の第十一水雷戦隊（高間完少将・海軍兵学校41期）に編
 入。2月20日に「宵月」とともに横須賀を出港して瀬戸
 内海に回航される[2]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦楠：進水日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261101T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261102T150000Z
UID:285586129108
DESCRIPTION:　仮称5521号艦、橘型（改松型）駆逐艦として
 横須賀海軍工廠で建造された。1944年11月9日起工、1945年
 1月8日進水。4月28日に竣工した。竣工後、訓練部隊の第
 十一水雷戦隊（高間完少将・海軍兵学校41期）に編入。
 缶部に不具合があって修理の後[2]、瀬戸内海に向かう
 。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦秋風：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261102T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261103T150000Z
UID:243973249885
DESCRIPTION:　1944年10月30-31日、「秋風」はフィリピン方面
 への『緊急輸送作戦』に従事する空母「隼鷹」を護衛
 することになった[21]。「隼鷹」は空母でありながら航
 空機をまったく搭載せず、その格納庫に戦艦「大和」
 を含む第二艦隊（栗田艦隊）用の砲弾、第三十一根拠
 地隊向けの砲弾、第1挺進集団の一部、第七震洋隊の水
 上特攻艇「震洋」50隻と基地隊員130名を搭載したという
 [21]。 輸送部隊は隼鷹艦長を指揮官とし、空母「隼鷹」
 、軽巡洋艦「木曾」、第30駆逐隊（司令澤村成二大佐：
 夕月、卯月、秋風）で編制されている[22]。しかし艦隊
 の動向は米軍に察知されており、米潜水艦複数（ジャ
 ラオ、アトゥル、ピンタド等）からなるウルフパック
 が「隼鷹」を狙っていた[23]。 \n　台湾・馬公市に立ち
 寄ったのちブルネイに向け移動中の11月3日夜、米潜水
 艦ピンタド(USS Pintado\, SS-387)が「隼鷹」に対して魚雷6本
 を発射[23]、これが「秋風」に命中し22時53分、大爆発に
 より「秋風」の艦体は分断され艦尾は22時58分に沈没し
 た[24]。「夕月」が救援にあたるが[25]、秋風乗組員は全
 員行方不明（戦死認定）となった[26]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦初霜：進水日(1933)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261103T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261104T150000Z
UID:387555235907
DESCRIPTION:　1932年（昭和7年）10月1日、日本海軍は浦賀船
 渠株式会社に駆逐艦1隻の建造を命じた[4]。12月10日、制
 式に初霜と命名した[2]。また姉妹艦2隻（有明、夕暮）
 等も命名された[2]。 浦賀船渠で1933年（昭和8年）1月31
 日に起工[5][6]。同年10月31日、初霜進水式の最中に事故
 が発生、浦賀船渠は進水を中止する[4][7]。 11月4日に進
 水式をやりなおした[7][8]。建造途中で同型艦初春の復
 元性能不良が判明し、改善工事を施す。\n　1934年（昭
 和9年）2月1日、松原博少佐は初霜艤装員長に任命され
 る[9]。2月12日、浦賀船渠に初霜艤装員事務所を設置す
 る[10]。 初霜は9月27日に竣工[5][11]、同日附で初霜艤装
 員事務所は撤去[12]。松原少佐も初霜初代駆逐艦長とな
 る[13]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦峯雲：進水日(1937)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261103T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261104T150000Z
UID:102849633515
DESCRIPTION:　1936年（昭和11年）12月14日、日本海軍は建造
 予定の水上機母艦2隻・駆逐艦2隻に、水上機母艦「千代
 田」と「瑞穂」、朝潮型駆逐艦「峯雲」と「霰」の艦
 名を与えた[1]。 藤永田造船所で建造された朝潮型は、
 本艦のほかに3番艦「満潮」[5]、6番艦「山雲」[6]の計3
 隻である。 駆逐艦「峯雲」は1937年（昭和12年）3月22日
 に起工、同年11月4日に進水[7][8]。翌日には神戸川崎造
 船所で姉妹艦「朝雲」も進水した[8]。\n　1938年（昭和13
 年）1月20日、朝潮型2番艦「大潮」駆逐艦長山代勝守中
 佐は峯雲艤装員長を命じられる[9]。 1月27日、藤永田造
 船所に峯雲艤装員事務所を設置[10]。本艦は4月30日に竣
 工[7]。峯雲艤装員事務所は撤去され[11]、山代中佐も本
 艦初代駆逐艦長となった[12]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦山雲：起工日(1936)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261103T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261104T150000Z
UID:125126903203
DESCRIPTION:　駆逐艦「山雲」は藤永田造船所で建造開始
 。1936年（昭和11年）10月22日、「山雲（ヤマグモ）」と
 命名[1]。姉妹艦「朝雲」、工作艦「明石」も同日附で
 命名されている[1]。同年11月4日に起工、1937年（昭和12
 年）7月24日に進水、1938年（昭和13年）1月15日に竣工[4]
 。同時に第41駆逐隊に編入された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦桃：起工日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261104T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261105T150000Z
UID:255936893788
DESCRIPTION:　1942年戦時建造補充(改⑤)追加計画丁型(一等)
 駆逐艦第5484号艦として舞鶴海軍工廠で建造[4]。本艦は1
 943年（昭和18年）11月5日起工[6][7]。1944年（昭和19年）1
 月25日、『桃」と命名[2]。同日附で3隻（竹、梅、桃）
 は松型駆逐艦に類別[3]。 3月25日、舞鶴海軍工廠で松型1
 番艦「松」や秋月型駆逐艦8番艦「冬月」の艤装が急が
 れる中[8]、「桃」は進水する[9]。\n　6月10日[16]、本艦
 は竣工する（槇の進水と同日）[17][18]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦満潮：起工日(1935)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261104T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261105T150000Z
UID:296100566493
DESCRIPTION:　1935年（昭和10年）9月28日、日本海軍は藤永
 田造船所で建造の駆逐艦を満潮、神戸川崎造船所で建
 造の駆逐艦を荒潮と命名した[1]。満潮は藤永田造船所
 において同年11月5日に起工された[4]。 1937年（昭和12年
 ）3月15日に進水[4][5]。のちに僚艦となる白露型駆逐艦
 涼風より4日遅い進水だった[6]。 7月6日、海軍は吹雪型
 駆逐艦暁艦長佐藤康夫中佐を満潮艤装員長に任命した
 （後任の暁艦長篠田勝清中佐は、レイテ沖海戦時の戦
 艦山城艦長）[7]。 7月13日、藤永田造船所に満潮艤装員
 事務所を設置[8]。 \n　1937年10月31日に竣工した[4]。佐藤
 満潮艤装員長も制式に満潮初代艦長となる[9]。舞鶴工
 廠で建造された朝潮型2番艦大潮とは進水は満潮の方が
 早く、竣工は同日であった[10]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦巻雲：進水日(1941)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261104T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261105T150000Z
UID:116716352744
DESCRIPTION:　駆逐艦「巻雲」は1939年度（マル4計画）仮称
 第117号艦として藤永田造船所で建造された。1940年（昭
 和15年）12月23日起工[3]。1941年（昭和16年）8月5日、平島
 型敷設艇澎湖・鷹島等と共に命名される[1]。「巻雲」
 も同日附で一等夕雲型に登録された[4]。同年11月5日進
 水[3]。12月20日、巻雲艤装員長として藤田勇中佐[5]が着
 任する（藤田は9月まで朝潮型駆逐艦1番艦朝潮駆逐艦長
 ）[6]。1942年（昭和17年）3月14日に竣工した[3][8]。\n　横
 須賀鎮守府籍[10]。横須賀鎮守府警備駆逐艦となった本
 艦は、横須賀へ移動した。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦朝雲：進水日(1937)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261104T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261105T150000Z
UID:140644350163
DESCRIPTION:　神戸川崎造船所で建造予定の駆逐艦「朝雲
 」は、1936年（昭和11年）10月22日に命名[1]。同日附で姉
 妹艦「山雲」、工作艦「明石」も命名されている[1]。
 同年12月23日に起工、1937年（昭和12年）11月5日進水、1938
 年（昭和13年）3月31日に竣工[3]。同時に第41駆逐隊に編
 入された。同年12月15日、第三予備艦となり横須賀海軍
 工廠で蒸気タービン機関の改造工事を実施した（臨機
 調事件）。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦陽炎：竣工日(1939)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261105T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261106T150000Z
UID:117346327911
DESCRIPTION:　舞鶴海軍工廠で1937年（昭和12年）9月3日に起
 工[5]。1938年（昭和13年）4月15日、舞鶴工廠で建造中の
 駆逐艦に『陽炎』、浦賀船渠の駆逐艦に『不知火』、
 藤永田造船所の駆逐艦に『黒潮』、東京石川島造船所
 の測天型敷設艇2番艇に「白神」等の艦名が正式に与え
 られた[6][1]。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐
 艦』が新設され、3隻（陽炎、不知火、黒潮）は同型に
 類別された[7]。 「陽炎」は同年9月27日に進水した[5][8]
 。\n　1939年（昭和14年）2月2日、吹雪型駆逐艦敷波駆逐
 艦長山本岩多中佐は陽炎の艤装員長に任命された[9]。2
 月6日、舞鶴海軍工廠に陽炎艤装員事務所を設置[10]。 8
 月10日附で山本艤装員長は陽炎駆逐艦長（初代）となる
 [11]。「陽炎」は11月6日に竣工した[5]。起工・進水とも2
 番艦「不知火」の方が1番艦「陽炎」より早かったが（
 不知火起工1937年8月30日、進水1938年6月28日）、竣工は「
 陽炎」の方が先である[12]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦曙：進水日(1930)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261106T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261107T150000Z
UID:330919655343
DESCRIPTION:　「曙」は大阪市の藤永田造船所で建造され
 た。1929年10月25日に起工、1930年11月7日に進水、1931年7月
 31日に就役し[1]、一等駆逐艦に類別され、第2艦隊第7駆
 逐隊に編入された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦波風：起工日(1920)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261106T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261107T150000Z
UID:693370265970
DESCRIPTION:　舞鶴海軍工廠で建造。1921年11月7日起工、1922
 年6月24日進水。同年11月11日に竣工した。一等駆逐艦に
 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。1922年（大正11年）12
 月28日、神風型駆逐艦 (2代)「第一駆逐艦」（「神風」
 ）と同じく第1駆逐隊に編入され、同型艦「野風」「沼
 風」とともに千島、北海道方面の交通保護に当った。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦野分：起工日(1939)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261107T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261108T150000Z
UID:295771359746
DESCRIPTION:　駆逐艦野分は陽炎型駆逐艦のマル3計画での
 最終艦（15隻目。陽炎型は次のマル4計画でも4隻建造さ
 れ計19隻）、仮称第31号艦として舞鶴工廠で建造開始。1
 939年（昭和14年）11月8日起工[3]。1940年（昭和15年）8月30
 日に「野分（ノワキ）」と命名される[1]。同日附で陽
 炎型14番艦谷風や練習巡洋艦香椎、測量艦筑紫等も命名
 されている[1]。野分は9月17日に進水[3]。なお登録上は
 野分が陽炎型15番艦で16番艦は嵐だが[2]、起工・進水・
 竣工のいずれも野分より嵐の方が早い[4]。 11月15日、日
 本海軍は駆逐艦有明・叢雲・東雲艦長等を歴任した古
 閑孫太郎中佐を野分艤装員長に任命する[5]。同時期、
 野分艤装員事務所を設置[6]。\n　1941年（昭和16年）4月9
 日、古閑野分艤装員長は制式に野分初代駆逐艦長とな
 った[7]。同日附で野分艤装員事務所を撤去[8]。4月28日
 、野分は竣工された[3][9]。横須賀鎮守府籍。同日附で
 第4駆逐隊に編入された[10]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦朧：進水日(1930)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261107T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261108T150000Z
UID:439694395969
DESCRIPTION:　「朧」は佐世保海軍工廠で建造された[4]。19
 29年（昭和4年）11月29日に起工[4]。1930年（昭和5年）11月
 8日午前9時30分に進水[5]。 1931年（昭和6年）4月1日、日
 本海軍は伊藤皎少佐（前職、駆逐艦「松風」駆逐艦長
 ）を朧艤装員長に任命[6]。同日附で武田喜代吾少佐も
 潮艤装員長に任命されている[6]。 本艦は10月31日に就役
 [4]。同日附で柏木英中佐を司令とする第7駆逐隊も編制
 された[7]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦時津風：進水日(1939)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261109T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
UID:339608810725
DESCRIPTION:　浦賀船渠で建造され、1939年（昭和14年）2月2
 0日起工。同年8月25日、姉妹艦の天津風と共に「時津風
 （トキツカゼ）」と命名される[1]。11月10日に進水、1940
 年（昭和15年）9月1日附で駆逐艦天霧駆逐艦長中原義一
 郎中佐は、時津風艤装員長に任命される[3]。なお中原
 は、白露型駆逐艦4番艦夕立艤装員長[4]および初代駆逐
 艦長[5]だった。 時津風は12月15日に竣工[6]。同日附で中
 原艤装員長も制式に時津風初代駆逐艦長となる[7]。呉
 鎮守府籍。浦賀船渠で建造された陽炎型としては3隻目
 となった。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦春風：除籍日(1945)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261109T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
UID:565226771891
DESCRIPTION:　1945年（昭和20年）11月10日、神風型駆逐艦か
 ら除籍[18]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦皐月：除籍日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261109T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
UID:529870550070
DESCRIPTION:　1944年11月10日、駆逐艦「皐月」は 卯月型駆
 逐艦[137]、 第30駆逐隊[138]、 帝国駆逐艦籍[139] のそれぞ
 れから除籍された。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦天霧：竣工日(1930)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261109T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
UID:223716495413
DESCRIPTION:　石川島造船所で1928年（昭和3年）11月28日に
 起工、1930年（昭和5年）2月27日進水、1930年（昭和5年）1
 1月10日竣工。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦羽風：起工日(1919)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261111T150000Z
UID:320846860852
DESCRIPTION:　三菱長崎造船所で建造。1918年11月11日起工、
 1920年6月21日進水。同年9月16日に竣工した。一等駆逐艦
 に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦波風：竣工日(1922)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261111T150000Z
UID:114954790933
DESCRIPTION:　舞鶴海軍工廠で建造。1921年11月7日起工、1922
 年6月24日進水。同年11月11日に竣工した。一等駆逐艦に
 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。1922年（大正11年）12
 月28日、神風型駆逐艦 (2代)「第一駆逐艦」（「神風」
 ）と同じく第1駆逐隊に編入され、同型艦「野風」「沼
 風」とともに千島、北海道方面の交通保護に当った。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦涼波：戦没日(1943)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261111T150000Z
UID:219056916571
DESCRIPTION:　1943年11月11日早朝、第2回のラバウル空襲が
 行われた[107][108]。第38任務部隊はブーゲンビル島北方
 から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で
 艦載機を発進させた[106]。\n　本空襲で阿賀野型軽巡洋
 艦1番艦「阿賀野」が魚雷命中により艦尾切断の被害を
 受け[123][108]、夕雲型4番艦「長波」が大破[124][125]。 南
 東方面艦隊（司令長官草鹿任一中将）の下令によりラ
 バウル在泊艦艇（能代、阿賀野、摩耶《11月5日空襲で
 大破、ラバウル在泊》、長鯨、浦風、若月、風雲、早
 波、藤波、五月雨）[126][127]はトラック泊地に撤退し[108
 ]。ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊（大波、
 巻波、長波《航行不能状態》）となった[128]。 このう
 ち夕雲型2隻（大波、巻波）も11月24日のセント・ジョー
 ジ岬沖海戦で沈没[129][130]、「長波」のみラバウルに取
 り残された[125]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦疾風：起工日(1922)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261111T150000Z
UID:204629471688
DESCRIPTION:　1922年11月11日、第十三駆逐艦（疾風）は石川
 島造船所で起工[15][2]。 1924年4月24日、「第十三駆逐艦
 」の艦名は「第十三号駆逐艦」に改正[17][18]。 12月1日
 、旧「疾風」は駆逐艦籍より除籍[5][19]。翌年7月、廃船
 処分となり「廃駆逐艦5号」と改称後、呉海軍工廠でし
 ばらく保管されていた[20][21]。\n1925年（大正14年）3月23
 日午後4時、第13号駆逐艦（疾風）は進水[22][15]。1925年
 （大正14年）12月21日、第13号駆逐艦（疾風）は竣工した
 [15][2]。\n　1928年（昭和3年）8月1日附で「第十三号駆逐
 艦」は「疾風」と改名[8][28]。これに伴い、第一号型駆
 逐艦は神風型駆逐艦と改名される[29]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦若月：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261111T150000Z
UID:845830635354
DESCRIPTION:　1944年11月8日朝、多号作戦第四次輸送部隊を
 護衛してマニラを出撃。翌11月9日夕方にオルモック湾
 に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚
 げできなかった[96]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾
 を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25 とP-38 の
 攻撃を受けて陸軍特殊船高津丸（山下汽船、5\,657トン
 ）と輸送船香椎丸（大阪商船、8\,407トン）が沈没。輸
 送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将（
 海兵41期。霞座乗）は駆逐艦3隻（霞、朝霜、長波）に
 救助作業を担当させ、秋霜以下の艦艇は輸送船金華丸
 （大阪商船、9\,305トン）の護衛につけてマニラへ先発
 させた[97]。 この後、木村少将から朝霜・長波とともに
 第三次輸送部隊と合流するよう命令を受ける。21時にマ
 スバテ島東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊
 （指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官、旗艦島風）に
 合流した[98]。\n　第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろ
 にオルモック湾に到着する予定であったが、その直前
 に第38任務部隊（ジョン・S・マケイン・シニア中将）
 の艦載機347機[99]による空襲を受ける。前部と後部に爆
 弾が命中して北緯10度50分 東経124度31分の地点に沈没[100
 ]。駆逐艦長鈴木保厚大佐[101]以下290名が戦死[102]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦浜波：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261111T150000Z
UID:301371453260
DESCRIPTION:　1944年11月9日未明3時、浜波は多号作戦第三次
 輸送作戦を護衛してマニラを出撃[9]。11月10日21時、第
 三次輸送部隊はマスバテ島東方のブラックロック水道
 で、先にオルモック湾への輸送を行った第四次輸送部
 隊（木村昌福少将・第一水雷戦隊司令官・海兵41期）と
 すれ違い、初春と竹を第四次輸送部隊に移した上で、
 朝霜、長波、若月を第三次輸送部隊に加入させた。\n　
 第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に
 到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊（ジ
 ョン・S・マケイン・シニア中将）の艦載機347機[10]によ
 る空襲を受けた。浜波は艦首に被弾して艦首が垂れ下
 がり、他に三発被弾して舵も損傷した[11]。重傷を負っ
 た大島一太郎司令（海兵50期）と駆逐艦長本倉正義中佐
 （海兵51期）を含む乗員11名が横付けした朝霜に救助さ
 れた後、艦は放棄された。浜波の船体がその後どうな
 ったのかは定かではない。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦長波：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261111T150000Z
UID:930826313378
DESCRIPTION:　11月8日朝、多号作戦第四次輸送部隊を護衛
 してマニラを出撃。第三次輸送部隊は11月11日の正午ご
 ろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直
 前に第38任務部隊（ジョン・S・マケイン・シニア中将
 ）の艦載機347機[59]による空襲を受けた。浜波が真っ先
 に被弾し、朝霜は浜波のわずかな生存者を救助した[59]
 。続いて若月、部隊指揮官の第二水雷戦隊司令官早川
 幹夫少将（海兵44期）座乗の戦隊旗艦島風も被弾し、輸
 送船は全滅していた。やがて、激しい対空戦闘の末に
 弾薬が尽きた長波は右舷艦橋下に被弾し、艦右側にも
 至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、長波は
 艦首を上げて沈没していった。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦島風：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261110T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261111T150000Z
UID:565309436787
DESCRIPTION:　レイテ沖海戦の後、島風はブルネイ湾を経
 てマニラに進出しレイテ島行きの多号作戦に投入され
 た[83]。1944年11月11日未明、前日のB-24 からの通報を受け
 た魚雷艇隊の襲撃を受けるが跳ね返す[266]。しかし、最
 大の脅威である第38任務部隊（ジョン・S・マケイン・
 シニア中将）が迫りつつあった。対空戦闘に際して、
 早川少将は誘爆を防ぐため魚雷を投棄させた[271]。狭い
 湾内での戦闘だったが、その速力と的確な操艦により
 、爆弾や魚雷の直撃こそ受けなかった[271]。しかし、多
 数の至近弾と機銃掃射により船体に多数の小破孔が発
 生して浸水、機関からも蒸気が噴出して回転数が急速
 に低下、航行不能となる[273]。島風では内火艇やカッタ
 ーボートを海面に下したものの損傷により水没し、鈴
 木・松原参謀、駆逐艦長・機関長など合計21名は、沈没
 寸前に唯一残ったカッターに乗って島風を離れた[281]。
 午後5時30分、島風は後部附近の爆発により沈没した[282]
 [246]。島風には行動不能の重傷者が多数残されていたが
 爆沈時に戦死、既に艦を離れていた乗組員も全員行方
 不明となった[283]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦暁：戦没日(1942)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261112T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
UID:145788187469
DESCRIPTION:　1942年11月13日、暁は戦艦護衛の任務につき、
 日本艦隊の先頭に位置していた。アメリカ艦隊と次第
 に接近する中、午前1時50分、第三次ソロモン海戦・第
 一夜戦の劈頭、暁の探照灯がアメリカ艦隊の軽巡洋艦
 アトランタを照射した。そのためアメリカ艦隊からの
 砲弾が暁に集中し、一瞬にして航行不能に陥った。艦
 橋内では、山田勇助司令、高須賀駆逐艦長、航海長、
 新屋水雷長などの僅かな士官は生存していたが、砲術
 長とその部下全員、新屋水雷長の部下全員などが戦死
 し、操舵装置も破壊された。新屋は艦後部の予備操舵
 装置を作動させようと混乱した艦内を進んだが、火災
 のため近づくことが不可能であった。暁は制御を失い
 漂流し、ついに右に傾き転覆沈没した。砲撃を受けて
 から15分ほど後のことであった。新屋は艦橋から海に飛
 び込み、朝には周りに30名から40名ほどの乗組員が生存
 していたが、アメリカ軍の上陸用船艇に救助され捕虜
 となったのは、僅かに18名であった。特III型としても、
 第六駆逐隊としても、最初の犠牲艦となった。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦秋霜：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261112T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
UID:107923554284
DESCRIPTION:　秋霜はレイテ島への陸軍部隊輸送作戦（多
 号作戦）に投入される事となった。11月11日午前5時、木
 村司令官直率の駆逐艦3隻（霞、初春、竹）は第四次輸
 送部隊と合流[115]。18時、輸送部隊（霞、潮、秋霜、初
 春、竹、沖縄、金華丸）はマニラに到着して任務を終
 えた[116][104]。\n　11月13日午後、マニラはアメリカ軍第3
 8任務部隊の艦載機の攻撃を受けた。第5蓬莱丸は船体後
 部に直撃弾を受け、同日中に大破着底。曙は直撃弾1発
 ・至近弾10数発を受けて大破した[123]。秋霜も一番砲塔
 前方と後部甲板に直撃弾3発を受け火災が発生、その後
 火薬庫に誘爆して炎上した[123]。秋霜は翌14日5時に右舷
 を下にして転覆し、艦橋部が海底に埋まった状態で着
 底、曙も同じ14日朝に艦橋部のみを海面上に露出させて
 着底した[120][123]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦照月：起工日(1940)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261112T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
UID:943487997689
DESCRIPTION:　1939年（昭和14年）度（マル4計画）の第105号
 艦[4]。1940年（昭和15年）11月13日、三菱重工業長崎造船
 所で起工[4]。1941年（昭和16年）10月25日に命名[2]、同日
 附で一等駆逐艦秋月型に類別される[5]。「照月」は真
 珠湾攻撃直前の11月21日に進水[4]。本艦は8月31日に竣工
 して佐世保鎮守府籍となる[12][4][13]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦沖波：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261112T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
UID:207472186063
DESCRIPTION:　1944年11月13日に第38任務部隊の艦載機がマニ
 ラを空襲した。朝からの波状攻撃により軽巡「木曾」
 、駆逐艦複数隻（曙、初春、秋霜）などマニラ在泊中
 の艦船は次々と被害を受けた[141][142]。 「沖波」もマニ
 ラ湾にて攻撃を受けて損傷、火災が発生した[143][144][145
 ]。朝霜等の救援により陸岸に移動して消火に成功した
 が、浸水が進み着底した[145]。この時点で、「沖波」に
 残る乗組員は約30数名となった[145][146]。沈没していた
 夕雲型13番艦浜波が書類上第31駆逐隊に編入された[149]
 。第31駆逐隊4隻（長波、岸波、沖波、浜波）、のうち3
 隻（長波、沖波、浜波）は沈没もしくは大破着底状態
 のため書類上の存在に過ぎなかった[149]。\n　その後1945
 年（昭和20年）1月7日、「沖波」は爆破処理された[6]。 
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦夕立：戦没日(1942)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261112T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
UID:307340830101
DESCRIPTION:　1942年11月12日、第三次ソロモン海戦第一夜戦
 。混乱する状況下で夕立は敵発見を報告する[117][105]。
 続いて比叡の照射攻撃に米艦隊の注意が集まる間に距
 離を詰め、魚雷発射態勢に入った[118][119]。魚雷発射後
 、夕立は右に転舵したため、左に転舵した春雨を見失
 い、単艦で米艦隊へ突入していった[120][121][122]。\n　米
 艦隊の中央を突破して敵を混乱に陥れ大きな戦果を挙
 げた夕立だったが、00時26分前後に右前方から探照灯で
 照射され、続いて右舷と左舷の両方から砲撃を受け被
 弾する[126][122]。砲撃を受けた夕立は味方識別を行った
 が射撃はやまず、この「敵艦」に砲戦を企図したとこ
 ろに直撃弾複数を受け大破、吉川艦長以下幹部将校も
 負傷[128]。機関室に損傷を受け、操舵装置も故障[122]。
 サボ島165度9浬の地点で航行不能となった[124]。\n　11月1
 3日1時15分、第2駆逐隊の姉妹艦五月雨は夕立の救援を命
 じられて捜索を開始、1時55分前後に夕立を発見して接
 近していった[133][130]。五月雨から見た夕立は艦首を喪
 失し、火災が艦尾に広がりつつあったという[134]。2時26
 分、退去決定[135]。横付けして夕立の乗組員を移乗させ
 た五月雨は、夕立を雷撃処分のため2時44分に魚雷2本を
 発射、だが魚雷は艦底を通過し、2時53分に再度魚雷1本
 を発射すると砲撃処分を開始する[136]。戦闘詳報の報告
 とは裏腹に魚雷は命中していなかったが、夕立は傾斜
 を増した[137]。このあと五月雨は米重巡洋艦（ポートラ
 ンド）に捕捉された上に、日の出と共にアメリカ軍機
 の襲撃も予想された為、夕立の沈没を確認しないまま
 戦域を離脱した[138]。五月雨駆逐艦長に「まことにすま
 ないが、もう一度引き返して魚雷を撃って貰えないか
 」と頼む吉川艦長の姿も目撃された[139]。\n　結局、放
 棄された夕立は重巡洋艦ポートランド (USS Portland\, CA-33)
 の砲撃により、六斉射目に起きた艦後部の爆発によっ
 てアイアンボトム・サウンド（鉄底海峡）に沈没した[1
 40]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦初春：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261112T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
UID:318302455780
DESCRIPTION:　1944年10月31日、第一水雷戦隊司令官木村昌福
 少将の指揮下、第二次多号作戦に警戒隊の駆逐艦6隻（
 霞《第一水雷戦隊旗艦》、沖波《牧野担艦長》、曙、
 潮、初霜、初春）として参加し、オルモックへの突入
 に成功した[82][83]。 \n　11月13日、マニラ湾に停泊中の
 艦艇は米空母機動部隊艦載機の空襲を受ける。本艦以
 下、軽巡「木曾」、駆逐艦4隻（初春、曙、沖波、秋霜
 ）等と共に沈没/大破着底した[93][94]。大熊（初春艦長
 ）によれば、至近弾で火災が発生し、また船体から燃
 料が漏洩[74]。大火災となって手がつけられなくなり、
 軍艦旗降下のあと総員退去となったという[74]。 その後
 、生存者の一部は陸上兵力として再配置された[95]。同
 日深夜、残存艦艇（霞、初霜、朝霜、潮、竹）はマニ
 ラを出港し、シンガポールへ向かった[96][97]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦曙：戦没日(1944)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261114T150000Z
UID:130499459909
DESCRIPTION:　1944年11月5日、マニラ湾一帯を米軍が空襲し
 、停泊中の「曙」は直撃弾2発を受けて炎上、航行不能
 となった。「曙」はキャヴィテ桟橋（北緯14度35分 東経
 120度55分座標: 北緯14度35分 東経120度55分）の第一〇三工
 作部の修理を受けるべく、キャビテ港第2桟橋に係留さ
 れた。この時、機関故障を起こした2ET型戦時標準船の
 第5蓬莱丸（蓬莱タンカー、834総トン）が同桟橋に回航
 されており、11月11日には第四次多号作戦に参加中に空
 襲を受け、艦首切断を起こしていた「秋霜」も同桟橋
 に回航され、岸壁から第5蓬莱丸、「曙」、「秋霜」の
 順番で係留されていた[6]。\n　11月13日午後、米航空母
 艦艦載機がマニラ湾を再び空襲する。第5蓬莱丸は船体
 後部に直撃弾を受けて同日中に大破着底。「曙」は直
 撃弾1発・至近弾10数発を受けて左舷に傾斜し、その外
 側にいた「秋霜」も一番砲塔前方と後部甲板に直撃弾3
 発を受け、弾薬庫が誘爆して炎上する。\n　「曙」は翌
 14日朝に艦橋部のみを海面上に露出させて着底し、「秋
 霜」も同じ14日朝に右舷を下にして転覆し、艦橋部が海
 底に埋まった状態で着底した[6]。乗員48人が戦死し、43
 人が負傷した[9]。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦潮：竣工日(1931)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261114T150000Z
UID:169184182963
DESCRIPTION:　駆逐艦「潮」は浦賀船渠で建造[3]。1929年（
 昭和4年）12月24日に起工[3]。一等駆逐艦に類別された。
 1930年（昭和5年）11月17日に進水[3][4]。1931年（昭和6年）
 11月14日に竣工[3]。第7駆逐隊に編入。
LOCATION:
END:VEVENT
BEGIN:VEVENT
SUMMARY:駆逐艦白露：起工日(1933)
DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20261113T150000Z
DTEND;VALUE=DATE-TIME:20261114T150000Z
UID:900590059063
DESCRIPTION:「白露」は佐世保工廠で1933年（昭和8年）11月1
 4日に起工[6]。同年12月15日、初春型駆逐艦「有明、夕暮
 」は初春型から除かれ、『一等駆逐艦有明型』が登録
 された[7]。同日附で建造中の有明型3隻に対しそれぞれ
 「白露（シラツユ）」、「時雨（シグレ）」「村雨（
 ムラサメ）」の艦名が与えられる[1]。1934年（昭和9年）
 11月19日、有明型駆逐艦は登録を抹消されて「有明、夕
 暮」は初春型に戻り、あらたに白露型駆逐艦が新設、
 有明型3番艦だった「白露」は同型の1番艦（ネームシッ
 プ）となった[7]。1935年（昭和10年）4月5日に進水[6]。193
 6年（昭和11年）8月20日に竣工した[6]。
LOCATION:
END:VEVENT
END:VCALENDAR
