BEGIN:VCALENDAR VERSION:2.0 PRODID:-//chikkutakku.com//RDFCal 1.0//EN X-WR-CALDESC:GoogleカレンダーやiCalendar形式情報を共有シェ アしましょう。近所のイベントから全国のイベントま で今日のイベント検索やスケジュールを決めるならち っくたっく X-WR-CALNAME:ちっくたっく X-WR-TIMEZONE:UTC BEGIN:VEVENT SUMMARY:2025(令和7)年度 昭和文学会 第77回研究集会(2 025年12月20日(土)14:00~17:40、法政大学 市ヶ谷キャン パス 大内山校舎8階、ハイフレックス方式) DTSTART;VALUE=DATE:20251219 DTEND;VALUE=DATE:20251220 UID:161956450421 DESCRIPTION:研究会情報です。●公式サイトはこちらhttp://s wbg.org/wp/?p=3512--------------------※詳細は上記サイトをご確 認ください。日時 2025年12月20日(土)14:00~17:40会場  法政大学 市ヶ谷キャンパス 大内山校舎8階(〒102-81 60 東京都千代田区富士見町2-17-1)【開会の辞】中丸  宣明(法政大学文学部教授) ※ハガキの内容から変更 がありました。【研究発表】武田泰淳「風媒花」論─ ─一九五〇年前後の中国表象を中心に魏 永珍司会  立尾 真士遠藤周作『海と毒薬』の語りの機能──「 私」の役割に着目して──森 葵司会 阿部 菜々香 安部公房『砂の女』における知識人表象糸賀 寛司会  加藤 優1970〜80年代文学における〈語られる野球〉 ──村上春樹と高橋源一郎を中心に太田 若葉司会  栗原 悠【閉会の辞】代表幹事 金子 明雄【発表要 旨】武田泰淳「風媒花」論──一九五〇年前後の中国 表象を中心に魏 永珍(ギ エイチン) 武田泰淳「 風媒花」(『群像』一九五二年一月〜一一月)は、中 国とかかわりをもつ約二十名の登場人物が、三日間に 起こす諸事件を描いた群像小説である。この小説の中 では、中国の国民党・共産党双方のプロパガンダ言説 が日本語の文脈に流通・浸透する様子、「白団」や山 西省の日本軍残留問題といった政治的・軍事的な動き が描かれただけでなく、朝鮮戦争下のPD工場で働く労働 者や女性たちが中国の文化と接触する場面など、当時 の人々の日常生活と中国との多様なつながりが書き込 まれている。一九五〇年前後の時期は、中国について 語る枠組みが日中戦争・アジア太平洋戦争の文脈から 冷戦体制のそれへと再編されていく転換期と言える。 そうした時期に泰淳は、この小説の中でいかなる中国 表象を提示しようと企てたのか。本発表では、同時代 の新聞・雑誌メディアや堀田善衞「広場の孤独」にお ける中国表象との比較から、この小説の特質について 検討したい。(早稲田大学・院)遠藤周作『海と毒薬 』の語りの機能──「私」の役割に着目して──森  葵(モリ・アオイ) 『海と毒薬』は戦時中に起きた 米軍捕虜の生体解剖事件を材にとった作品である。そ の語りは、戦後復興期に事件と関わりのない「私」が 語る序の部分と事件の当事者のうちの二人(看護婦上 田・医学生戸田)の手記、解剖事件前から解剖直後ま での流れを追って語っていく三人称の語り(勝呂を視 点人物とした章と勝呂・戸田・上田それぞれが視点人 物の章がある)によって構成されている。また、初版 本刊行の際に大幅な加筆があり、語りの視点人物の変 更や上田の心理や行動の加筆がある。多数ある先行論 では、語りや構造に着目した論は少なく、初出と初版 の異同を詳細に分析している研究はほとんど見られな い。本発表では、初出と初版の異同を分析し、初出は 勝呂と戸田が並置された物語であるが、初版では「私 」と勝呂を主流とする勝呂と戸田と上田の物語として 読み得ることを提示したい。また、語りや物語構造の 分析を行うことにより、勝呂と「私」の関係性を捉え 直し、「私」の役割を再検討したい。(九州大学・院 )安部公房『砂の女』における知識人表象糸賀 寛( イトガ・カン) 『砂の女』(一九六二年新潮社)は 、短編「チチンデラ・ヤパナ」(一九六〇年『文学界 』)を発展させた、安部公房の代表作である。先行研 究には、男の内面的変化を分析するものが多くあり、 政治的主体の誕生、性の変容、都市的価値観の揺らぎ などが論じられてきた。対して本発表は、長篇化に当 たって主人公の職業が会社員から教師へ変更された点 や、公房が科学に強い関心を持ち、環境へ能動的に働 きかける人間を評価していた点を踏まえ、環境を作り 替える科学的知識人の誕生という観点から本作を再読 する。男は、三つの科学的発見ないしは発見と自身で 思っていることを行っており、それらは彼の行動や認 識の変質を予示していると捉えられる。男は、最終的 に砂から水を得る方法を見つけ出すが、これによって 自然を人間の利用可能な形に変え得る可能性に気付い たと言える。このように本作は、男が、環境を変化さ せる存在になっていく物語と解釈できる。(京都大学 ・院)1970〜80年代文学における〈語られる野球〉── 村上春樹と高橋源一郎を中心に太田 若葉(オオタ・ ワカバ) 1970〜80年代の日本において、野球は「国民 的娯楽」として社会的な統合感覚を提供し続けていた 一方で、文学作品においては、それまでの「競技とし ての野球」や「英雄的物語としての野球」とは異なる 、より象徴的・記号的なかたちで語られるようになっ た。本発表では、野球が〈語られる文化〉として都市 の想像力にどのように組み込まれていったのかを、村 上春樹と高橋源一郎の作品を中心に検討する。ここで いう〈語られる文化〉とは、野球がプレイの現場を離 れ、言葉・風景・記憶などの領域において共有される 文化的装置として機能するあり方を指す。分析を通じ て、1970〜80年代文学における「語られる野球」が、① 文化翻訳の問題、②都市的経験としての風景化、③ポ ストモダン的断片性、という三つの次元で立ち上がる ことを明らかにする。文学において野球が語られると き、そこには競技や記録では捉えきれない都市文化の 位相が刻印されている。(公益財団法人 野球殿堂博物 館 学芸員) LOCATION: END:VEVENT END:VCALENDAR