BEGIN:VCALENDAR VERSION:2.0 PRODID:-//chikkutakku.com//RDFCal 1.0//EN X-WR-CALDESC:GoogleカレンダーやiCalendar形式情報を共有シェ アしましょう。近所のイベントから全国のイベントま で今日のイベント検索やスケジュールを決めるならち っくたっく X-WR-CALNAME:ちっくたっく X-WR-TIMEZONE:UTC BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦天津風:進水日(1939) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251018T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251019T150000Z UID:160834668906 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で1939年(昭和14年)2月14日起 工[7]。8月25日、天津風(アマツカゼ)と命名された[1] 。姉妹艦の時津風も同日附の命名であった[1]。同年10月 19日進水、1940年(昭和15年)10月26日に竣工[7]。呉鎮守 府籍。\n 天津風は後に次世代型駆逐艦島風で採用した 高温高圧缶(ボイラー)をテストケースで搭載したこ とで知られる[4]。天津風の試作機関は小型の大出力機 関を開発するのに必要な技術であった。ただし、天津 風の機関出力は他の陽炎型と同じく5万2000馬力に設定さ れ、巡航時の燃料消費量もさほどかわらなかった[4]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦早霜:進水日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251019T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251020T150000Z UID:260679239884 DESCRIPTION: 1942年度(マル急計画)仮称第345号艦として 舞鶴海軍工廠で建造、1943年(昭和18年)1月20日、起工[3 ][4]。 7月31日、第345号艦は早霜と命名された[2]。早霜は 夕雲型駆逐艦に類別された[10]。 早霜は10月20日に進水 した[5]。同日附で横須賀鎮守府に所属される[11]。\n 19 44年2月20日、早霜は竣工して海軍に引き渡された[16][15] 。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦弥生:除籍日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251019T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251020T150000Z UID:135449005493 DESCRIPTION: 1942年10月20日、駆逐艦「弥生(彌生)」は一 等駆逐艦卯月型[49]、 帝国駆逐艦籍[3]、 第30駆逐隊[50] のそれぞれから除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦文月:起工日(1924) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251019T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251020T150000Z UID:166556832385 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1924年(大正13 年)10月20日、藤永田造船所で起工。当初の起工予定日 は11月10日であったが、工事上の都合により変更された[ 5]。11月10日、制式に「第二十九号駆逐艦」と命名され る[6]。同日附で一等駆逐艦に類別[7]。 1926年2月16日に進 水。7月3日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。1928年( 昭和3年)8月1日附で「文月」と改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦薄雲:起工日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251020T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251021T150000Z UID:182344631407 DESCRIPTION: 1926年(大正15年)9月29日、建造予定の駆逐 艦4隻にそれぞれ「第三十七号駆逐艦(のちの初雪)」 、「第四十一号駆逐艦(〃薄雲)」、「第四十二号駆 逐艦(〃白雲)」、「第四十三号駆逐艦(〃磯波)」 の艦名が与えられる[7]。同日附で4隻は一等駆逐艦に類 別される[8]。 「薄雲」は東京石川島造船所で同年10月21 日に起工、1927年(昭和2年)12月26日に進水、1928年(昭 和3年)7月26日に竣工[9]。「薄雲」の建造スケジュール は、姉妹艦3隻(東雲、白雲、磯波)とほぼ同一だった[ 10][11][12]。 竣工から一週間もたたない8月1日附で「第41 号駆逐艦」は「薄雲」と改名される[5]。同年12月1日、 第二艦隊・第二水雷戦隊・第12駆逐隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦菫:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251020T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251021T150000Z UID:734180348745 DESCRIPTION: 仮称5520号艦、橘型(改松型)駆逐艦6番艦と して横須賀海軍工廠で建造された。1944年10月21日起工、 12月17日進水。1945年3月26日に竣工した。竣工後、訓練部 隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に 編入。二番高角砲に不具合があって修理の後[2]、瀬戸 内海に向かう。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦雷:進水日(1931) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251021T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251022T150000Z UID:244648693569 DESCRIPTION: 「雷」は、浦賀船渠で1930年(昭和5年)3月7 日起工される。1931年(昭和6年)10月22日進水。1932年( 昭和7年)8月15日竣工する。1941年(昭和16年)2月から10 月に石川島造船所で行われた特定修理では九三式探信 儀と九一式方位盤を装備[3]。その他、二番煙突後方に2 基装備されていた13ミリ連装機銃[4]の九六式二十五粍高 角機銃への換装も計画されたが、供給問題により換装 は実施されなかった[3]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦汐風:進水日(1920) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251021T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251022T150000Z UID:326407122811 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1920年5月15日起工、同 年10月22日進水。1921年7月29日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦若葉:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251023T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z UID:320997346237 DESCRIPTION: 1944年10月下旬のレイテ沖海戦では、第五艦 隊司令長官志摩清英中将が指揮する第二遊撃部隊(重 巡2隻《那智、足柄》、軽巡《阿武隈》、第18駆逐隊《 不知火、霞》、第7駆逐隊《潮、曙》、第21駆逐隊《若 葉、初霜、初春》)に所属し、レイテ湾に突入する計 画であった[63]。だが輸送任務のため、第21駆逐隊(若 葉、初春、初霜)は志摩艦隊本隊より遅れて行動を開 始する[64]。ミンドロ島東を南下、ミンダナオ島入口で 志摩艦隊本隊と合流する事を目指していた[63]。 10月23 日、航海中に救助した陸兵をマニラで上陸させると、 補給を受けて南下を開始する[65]。 \n だが10月24日午前 8-9時、第21駆逐隊は米軍空母艦載機約20の空襲を受ける[ 63]。この戦闘で司令駆逐艦の「若葉」は直撃弾と至近 弾による艦底損傷により浸水被害を受け[66]、沈没した[ 67]。沈没地点パナイ島西方北緯11度36分 東経121度36分[68] 。第21駆逐隊司令石井汞大佐と二ノ方(若葉駆逐艦長) は生還した[69][70]。戦死30名(准士官以上1、下士官兵29 )、重軽傷(准士官以上7、下士官兵67)と記録されて いる[71]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦望月:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251023T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z UID:204005731645 DESCRIPTION: 米軍が攻勢を強める中、第三水雷戦隊を基 幹とする襲撃部隊はニューブリテン島各部、ニューギ ニア方面、北部ソロモン諸島方面への輸送作戦を続け た[81]。10月7日-8日、「天霧、望月、皐月」はスルミ輸 送を実施した[81]。21日-22日、「天霧、望月」はブカ島 輸送を実施した[81]。23日、「望月」は「卯月」と共に ニューブリテン島ジャキノット輸送のためラバウル( ニューブリテン島北部)を出撃した[81]。\n 10月23日、 ジャキノットに米軍上陸との報告があり、南東方面艦 隊はビスマルク諸島方面防備部隊指揮官に艦艇・航空 部隊の出撃準備を命じた[82]。だが午前7時に攻撃準備を 解除し、あらたに駆逐艦2隻によるジャキノット輸送を 下令した[82]。第30駆逐隊司令沢村成二大佐は「望月」 に座乗、同隊「望月、卯月」は陸戦隊約100名を輸送す べく同日16時15分にラバウルを出撃した[82]。24日0020ジャ キノットで揚陸中、空襲を受けた「望月」は被弾して 沈没[82]。戦死者10名[83]。米軍記録による沈没地点 南緯 5度42分 東経151度40分。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦曙:起工日(1929) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:127977015405 DESCRIPTION: 「曙」は大阪市の藤永田造船所で建造され た。1929年10月25日に起工、1930年11月7日に進水、1931年7月 31日に就役し[1]、一等駆逐艦に類別され、第2艦隊第7駆 逐隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦満潮:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:179763479988 DESCRIPTION: 1944年10月22日、西村艦隊はブルネイを出撃し た[160]。 10月25日未明、第4駆逐隊(満潮、朝雲、山雲) 以下西村艦隊はスリガオ海峡に突入していった。アメ リカ軍魚雷艇の攻撃を撃退したのち、西村艦隊はアメ リカ軍駆逐艦隊の魚雷攻撃を受けた。この攻撃で戦艦 扶桑が航行不能となった(のちに爆沈)[165]。第4駆逐 隊3隻(満潮、朝雲、山雲)は次々に被雷して戦闘不能 となり、まもなく満潮と山雲は沈没した[166]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝雲:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:346044122700 DESCRIPTION: 1944年10月中旬以降の捷号作戦で第4駆逐隊( 満潮、朝雲、山雲、野分)は戦艦「山城」「扶桑」、 重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」と共に第一遊撃部 隊第三部隊(西村艦隊)に所属してレイテ湾突入を目 指した。\n 10月25日、西村艦隊はスリガオ海峡に突入 したものの「時雨」を残して全隻撃沈された。「満潮 」「山雲」に続く三番手に位置していた「朝雲」は、 米軍駆逐艦の魚雷攻撃により艦首を喪失、低速で反転 離脱を開始する[50]。だが2隻は追撃してきた米艦隊の砲 撃を受け、砲雷撃を受けた「朝雲」は炎上[52]。「朝雲 」軽巡洋艦デンバー、コロンビアの2隻にとどめを刺さ れた[53]。\n 総員退去後、「朝雲」は米巡洋艦及び駆 逐隊の集中射撃を受けて沈没した[54]。さらに米駆逐艦 は「朝雲」から脱出した内火艇も撃沈、乗組員は漂着 して捕虜となった[55]。約200名が戦死し、また生存者25 名がマニラ地区地上部隊に編入されたという記録が残 っている[56]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦山雲:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:300393948287 DESCRIPTION: 1944年10月中旬以降の捷号作戦で第4駆逐隊( 満潮、朝雲、山雲、野分)は戦艦「山城」「扶桑」、 重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」と共に第一遊撃部 隊第三部隊(西村艦隊)に所属してレイテ湾突入を目 指した。\n 10月25日、西村艦隊はスリガオ海峡に突入 したものの「時雨」を残して全隻撃沈された。午前2時2 0-30分頃、「満潮」-「山雲」-「朝雲」-「時雨」-「山城 」-「扶桑」-「最上」という単縦陣の二番手に位置して いた「山雲」は、米軍駆逐艦隊が発射した魚雷の命中 により航行不能となる[34]。西野(時雨駆逐艦長)によ れば、「満潮、山雲、朝雲」はほぼ同時に被雷、「山 雲」は轟沈であったという[35]。全員が戦死したとされ る。生存者1名がマニラ地区地上部隊に編入されたとい う記録が残るが、その後の消息は不明[36]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦黒潮:進水日(1938) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:123853493205 DESCRIPTION: 陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」は仮称19号艦と して藤永田造船所で1937年(昭和12年)8月31日に起工[3] 。\n 1938年(昭和13年)4月15日、日本海軍は舞鶴海軍工 廠で建造中の駆逐艦を『陽炎』、浦賀船渠の同型駆逐 艦を『不知火』、藤永田造船所の本艦を『黒潮』、東 京石川島造船所の測天型敷設艇2番艇を「白神」と命名 する[5][1]。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦 』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に類 別された[6]。 同年10月25日、「黒潮」は進水[3][7]。\n 1 940年(昭和15年)1月20日、佐世保海軍工廠で陽炎型8番 艦「雪風」が竣工[12]、呉へ回航される[13]。 「雪風」 竣工から一週間遅れた1月27日、陽炎型3番艦「黒潮」は 竣工[3][14]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦野分:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:133983423211 DESCRIPTION: レイテ沖海戦において、第4駆逐隊は分散配 備された。「野分」のみ単艦で第十戦隊(司令官木村 進少将:旗艦矢矧)直属となり、第17駆逐隊(浦風、磯 風、雪風、浜風)・夕雲型「清霜」と共に第一遊撃部 隊(栗田艦隊)第二部隊(指揮官兼第三戦隊司令官鈴 木義尾中将:戦艦金剛、榛名)に加わって参加した[162] 。1944年10月25日未明のレイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦で 西村艦隊は時雨1隻を残して全滅、この一連の戦闘にお いて、司令官白石万隆少将率いる第七戦隊(最上型重 巡洋艦《熊野、鈴谷》、利根型重巡洋艦《利根、筑摩 》)は大きな損害を受けた[170]。\n その後、野分は筑 摩の乗員救助を行い、筑摩を雷撃処分した(既に沈没 していたともいわれる。)[176]。撤退する大和以下栗田 艦隊本隊から遅れたため、10月25日の深夜にサンベルナ ルジノ海峡手前でウィリアム・ハルゼー・ジュニア提 督率いる米高速戦艦部隊(ニュージャージー、アイオ ワ基幹、軽巡3隻、駆逐艦8隻)に捕捉される[177]。アメ リカ軍は野分を巡洋艦もしくは大型駆逐艦と判断して いた[178]。野分は米軽巡ヴィンセンス、ビロクシー、マ イアミ、駆逐艦オーエン、ミラーによるレーダー射撃 を受け大破[179]、最後は駆逐艦の魚雷を受けて沈没した 。艦長以下272名[180]全員が戦死した[181]。野分に乗艦し ていた120-130名の筑摩乗員[182]も、アメリカ軍に救助さ れた1名以外同じ運命を辿った[176]。アメリカ軍によれ ば、沈没地点北緯13度0分 東経124度54分。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦秋月:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:287407821459 DESCRIPTION: 捷一号作戦の発令を前にした1944年10月12日、 「秋月」は呉に入港し10月14日まで出撃前の臨戦準備を 行った。10月25日午前7時、秋月以下前衛艦隊は小沢治三 郎中将が指揮する機動部隊本隊と合流した[182]。その1 時間後、エンガノ岬沖海戦がはじまった。\n 秋月は午 前8時25分から対空射撃を開始した[186]。午前8時50分に斜 め後方からSB2Cヘルダイバーによる急降下爆撃[189]によ り艦中央部に被弾する[190]。缶室では高圧蒸気が噴出し 、機関科70名(砲術科に応援を出したため規定82名以下) は第一缶室の3名を除き全滅した[191]。午前8時56分、艦 中央より黒煙と火災が発生[190]。次の瞬間、酸素魚雷の 誘爆による大爆発が起きた[192]。艦中央部に大孔が開き 、周辺の艦構造物は軒並み消失して「秋月」は完全に 停止、総員退避命令が出される[195]。\n まもなく二つ に分断されて沈没した[196][197]。五十鈴戦時日誌では、0 857「秋月眞中ヨリ折レル」 0859「秋月沈没」と記録し た[187]。沈没地点北緯18度15分 東経126度35分[23]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦初月:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:323217847012 DESCRIPTION: エンガノ岬沖海戦前の1944年10月25日18時40分 、巡洋艦部隊からの索敵機は1隻の巡洋艦と2隻の駆逐艦 を発見し、やがてレーダーでも3つの目標を探知するよ うになった[134]。目標が射程内に入るや否や、まずモー ビルが砲撃を開始いてウィチタも砲撃を開始した[134]。 「初月」は突然の砲撃を受けたものの、すぐさま煙幕 を張って26ノットの速力でジグザグ航行を行い敵弾をか わしつつ「敵水上艦艇ト交戦中」と打電[135]。2隻(五 十鈴、若月)もこれに続いて北方への脱出を図った[136] [137]。やがて「初月」は反撃態勢を整えて巡洋艦部隊に 単独で突進し、巡洋艦部隊は魚雷発射を警戒して2度に わたる回避運動を行った[134]。デュボース少将は駆逐艦 で足止めを試みつつ、さらに砲撃を続けた[134]。「初月 」では火災が発生したが、速力20ノット前後で反撃を続 けた[137]。\n 遭遇して約1時間後、彼我の距離が約5\,400 メートルに縮まったところで、サンタフェが照明弾を 発射[134]。これによって更なる集中砲火を受けることと なった。「徐々に又慎重に」砲火を浴びせ続けた結果[1 34]、20時45分頃には航行不能に陥る。駆逐艦ポーターフ ィールド (USS Porterfield\, DD-682) が止めを刺さんと接近し つつあったその時、アメリカ軍の記録では20時59分(56 分とも)[137]、爆発を起こして艦首から沈没していった [138]。沈没地点は北緯20度24分 東経126度20分と記録され た[134]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦竹:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251024T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z UID:182164722953 DESCRIPTION: 戦況悪化によって温存策が取られる事とな り、「竹」は第43駆逐隊各艦(榧、槇)等とともに屋代 島日見海岸に偽装係留し、最後の出撃の時まで待機す ることとなった[150][154]。近隣には僚艦(花月、桐、蔦 )も艤装繋留されていた[154]。樹木と網で偽装した3隻 (竹、槇、榧)はついに攻撃される事なく[155][154]、8月 15日の終戦時には航行可能な状態で残存した。「竹」は 僚艦とともに呉に回航されてアメリカ海軍に接収され た後[156]、1945年10月25日に除籍[4]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦浦波:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251026T150000Z UID:412674355028 DESCRIPTION: 太平洋戦争では、南方進攻、ミッドウェー 海戦、ソロモン諸島・ニューギニアの諸作戦に参加。 その後、南方で海上護衛、哨戒、輸送活動に従事した 。1944年(昭和19年)10月26日、オルモック輸送(多号作 戦)の帰途、パナイ島西方で米空母機の爆撃を受け戦 没した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦天津風:竣工日(1940) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251025T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251026T150000Z UID:335247999134 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で1939年(昭和14年)2月14日起 工[7]。8月25日、天津風(アマツカゼ)と命名された[1] 。姉妹艦の時津風も同日附の命名であった[1]。同年10月 19日進水、1940年(昭和15年)10月26日に竣工[7]。呉鎮守 府籍。\n 天津風は後に次世代型駆逐艦島風で採用した 高温高圧缶(ボイラー)をテストケースで搭載したこ とで知られる[4]。天津風の試作機関は小型の大出力機 関を開発するのに必要な技術であった。ただし、天津 風の機関出力は他の陽炎型と同じく5万2000馬力に設定さ れ、巡航時の燃料消費量もさほどかわらなかった[4]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦白雲:起工日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251026T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251027T150000Z UID:115792582092 DESCRIPTION: 1926年(大正15年)9月29日、建造予定の駆逐 艦4隻にそれぞれ「第三十七号駆逐艦(のちの初雪)」 、「第四十一号駆逐艦(〃薄雲)」、「第四十二号駆 逐艦(〃白雲)」、「第四十三号駆逐艦(〃磯波)」 の艦名が与えられる[6]。同日附で4隻は一等駆逐艦に類 別される[7]。 「白雲」は藤永田造船所で同年10月27日に 起工、1927年(昭和2年)12月27日に進水、1928年(昭和3年 )7月25日に竣工[8]。「白雲」の建造スケジュールは、 姉妹艦「東雲、薄雲、磯波」とほぼ同一だった[9][10][11] 。1928年(昭和3年)8月1日附で「第42号駆逐艦」は「白 雲」と改名される[1]。同日、第12駆逐隊に編入。同年12 月1日、第12駆逐隊は第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦不知火:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251026T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251027T150000Z UID:260356334845 DESCRIPTION: 1944年10月26日夕刻、パナイ島北東で第16戦隊 の軽巡鬼怒、駆逐艦浦波が空襲を受け沈没した[93]。左 近允尚正16戦隊司令官からの救援要請を受けた草鹿龍之 介参謀長は、第5艦隊・第1水雷戦隊に鬼怒曳航艦の派遣 を求めた[94]。しかし同日26日日没後、不知火は鬼怒の 救助に向かうが発見できず(鬼怒は26日17時20分沈没) 、帰途についた[95]。その途上の27日朝、米空母艦載機 の攻撃によりフィリピン諸島シブヤン海にて沈没、井 上司令・荒艦長以下全員が戦死した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦藤波:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251026T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251027T150000Z UID:183046977565 DESCRIPTION: 1944年10月18日、捷一号作戦発動に伴って栗田 中将の第二艦隊はリンガ泊地から出動し、ブルネイ湾 (英語版)で補給の後、10月22日に出撃した。10月24日か らのレイテ沖海戦では第一部隊に属して戦闘に参加し たが、10月25日、藤波は航行不能となった重巡鳥海の乗 組員を救助後、鳥海を雷撃処分して単艦でコロン島に 帰投することとなった。\n その途中の10月27日、藤波 は早霜がセミララ島の浅瀬に擱座して航行不能との報 を受け救援に向かったが、第38任務部隊(マーク・ミッ チャー中将)の艦載機の攻撃によりカラミアン諸島北 方のシブヤン海で戦没した。藤波、鳥海ともに1人の生 存者もいなかった。\n 早霜はその後放棄され後にアメ リカ軍の調査を受けるが、早霜の船体がその後どうな ったかは定かではない。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦欅:処分日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251028T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251029T150000Z UID:420743984519 DESCRIPTION: その後特別輸送艦となり復員輸送に従事す る。1946年(昭和21年)10月17日には、小笠原諸島に帰島 する欧米系島民129名を父島まで輸送した[10]。1947年(昭 和22年)7月5日にアメリカへ賠償艦として横須賀港で引 き渡され、10月29日に北緯34度44分 東経140度01分の地点で 標的艦として処分された[11]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦松風:進水日(1923) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251029T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251030T150000Z UID:152552523171 DESCRIPTION: 第七駆逐艦(松風)は1922年(大正11年)12月 2日に起工[11]。 1923年(大正12年)10月30日、進水[11]。 19 24年(大正13年)4月1日、初代「松風」は除籍[6]。数日 後の4月5日、第七駆逐艦(松風)は竣工[11]。竣工直後 の4月24日に、第七駆逐艦は第七号駆逐艦に改名[2][4]。 さらに1928年(昭和3年)8月1日附で第七号駆逐艦は「松 風」と改名された[2][1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦追風:竣工日(1925) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251029T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251030T150000Z UID:193320104768 DESCRIPTION: 第十一駆逐艦(追風)は浦賀船渠で建造。 本艦は1923年(大正12年)3月16日、起工[6]。関東大震災 を経て1924年(大正13年)11月27日に進水[6]。 1925年(大 正14年)4月24日、第十一駆逐艦は第十一号駆逐艦と改称 [10]。 10月30日、竣工[6]。竣工時の艦名は第十一号駆逐 艦で、1928年(昭和3年)8月1日附で「追風」と改称した[ 2][11]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦楓:竣工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251029T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251030T150000Z UID:294279304617 DESCRIPTION: 丁型一等駆逐艦第5505号艦として横須賀海軍 工廠で建造された。1944年3月4日起工、7月25日に進水、10 月30日に竣工した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朧:竣工日(1931) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251030T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251031T150000Z UID:430247224797 DESCRIPTION: 「朧」は佐世保海軍工廠で建造された[4]。19 29年(昭和4年)11月29日に起工[4]。1930年(昭和5年)11月 8日午前9時30分に進水[5]。 1931年(昭和6年)4月1日、日 本海軍は伊藤皎少佐(前職、駆逐艦「松風」駆逐艦長 )を朧艤装員長に任命[6]。同日附で武田喜代吾少佐も 潮艤装員長に任命されている[6]。 本艦は10月31日に就役 [4]。同日附で柏木英中佐を司令とする第7駆逐隊も編制 された[7]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦若葉:竣工日(1934) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251030T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251031T150000Z UID:298237966443 DESCRIPTION: 駆逐艦「若葉」(第61駆逐艦)は佐世保工廠 で1931年(昭和6年)12月12日に起工した[6][7]。初春型2番 艦「子日」(12月15日起工)より3日はやい起工だった[8] 。 1932年(昭和7年)8月1日、初春型駆逐艦1番艦に「初 春」、同型2番艦に「子日」、同型3番艦(本艦)に「若 葉」の艦名が与えられる[1][9]。建造途中で同型艦「初 春」の復元性能不良が判明し、改善工事を施すことに なる。このため進水は浦賀船渠で建造中の初春型4番艦 「初霜」(昭和8年1月31日起工)より約4ヶ月遅れた[12] 。 1934年(昭和9年)3月18日に進水[6][13]。 \n 6月5日、 佐世保海軍工廠に艤装員事務所を設置[15]。 10月10日、 則満艤装員長は制式に若葉駆逐艦長(初代)となる[16] 。 10月31日に竣工[6]。同日附で若葉艤装員事務所も撤去 [17]。「初霜」(9月27日竣工)より約1ヶ月遅れての竣工 だった[12]。「若葉」は第21駆逐隊(司令坂野民部大佐 )に編入され、同隊は定数4隻(初春、子日、初霜、若 葉)を揃える。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦大潮:竣工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251030T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251031T150000Z UID:218325451949 DESCRIPTION: 1935年(昭和10年)9月6日、日本海軍は佐世保 海軍工廠で建造予定の駆逐艦を「朝潮」、舞鶴要港工 作部で建造の駆逐艦を「大潮」と命名した[3][6]。同日 附で朝潮型駆逐艦が新設される[7]。 本艦は舞鶴海軍工 廠で1936年(昭和11年)8月5日に起工[8][9]。 1937年(昭和1 2年)4月19日に進水[9][10]。舞鶴要港部司令官中村亀三郎 中将は『のどかなる さくらさきそう 春の海に し ぶきたてゆく ふなおろし見る』という自作の和歌を 記念として贈った[4]。 7月5日、舞鶴海軍工廠に大潮艤 装員事務所を設置[14]。 7月7日、中国大陸で盧溝橋事件 が勃発、上海方面に派遣する駆逐艦が必要になったた め、艤装工事を急いだ[4]。\n 1937年10月5日、山代艤装 員長は正式に大潮初代駆逐艦長となる[15]。本艦は10月31 日に竣工[16]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦満潮:竣工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251030T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251031T150000Z UID:251811943577 DESCRIPTION: 1935年(昭和10年)9月28日、日本海軍は藤永 田造船所で建造の駆逐艦を満潮、神戸川崎造船所で建 造の駆逐艦を荒潮と命名した[1]。満潮は藤永田造船所 において同年11月5日に起工された[4]。 1937年(昭和12年 )3月15日に進水[4][5]。のちに僚艦となる白露型駆逐艦 涼風より4日遅い進水だった[6]。 7月6日、海軍は吹雪型 駆逐艦暁艦長佐藤康夫中佐を満潮艤装員長に任命した (後任の暁艦長篠田勝清中佐は、レイテ沖海戦時の戦 艦山城艦長)[7]。 7月13日、藤永田造船所に満潮艤装員 事務所を設置[8]。 \n 1937年10月31日に竣工した[4]。佐藤 満潮艤装員長も制式に満潮初代艦長となる[9]。舞鶴工 廠で建造された朝潮型2番艦大潮とは進水は満潮の方が 早く、竣工は同日であった[10]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦望月:竣工日(1927) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251030T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251031T150000Z UID:194007281373 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1925年(大正15 年)6月25日、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦に「第三十 三号駆逐艦」の艦名が与えられた[3]。なお同日附で「 第35号駆逐艦(吹雪)」、「第40号駆逐艦(東雲)」も命名さ れている[4]。3隻とも一等駆逐艦に類別[5]。「第33号駆 逐艦」は1926年3月23日に起工、1927年(昭和2年)4月28日 に進水。10月31日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。1928 年(昭和3年)8月1日に「第33号駆逐艦」は「望月」と改 名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦江風:進水日(1936) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251031T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251101T150000Z UID:256001068536 DESCRIPTION: 本艦は藤永田造船所で1935年(昭和10年)4月2 5日に起工[11]。 1936年(昭和11年)11月1日に進水した[11][ 12]。12月1日、日本海軍は初春型駆逐艦4番艦「初霜」駆 逐艦長山田雄二中佐を江風艤装員長に任命した[13]。 12 月7日、藤永田造船所に江風艤装員事務所を、神戸川崎 造船所に熊野艤装員事務所を設置する[14]。 1937年(昭 和12年)4月30日、「江風」は竣工した[11]。山田江風艤 装員長も制式に江風駆逐艦長(初代)となる[15]。佐世 保鎮守府籍。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦谷風:進水日(1940) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251031T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251101T150000Z UID:330741426131 DESCRIPTION: 陽炎型駆逐艦第14番艦谷風は仮称第30号艦と して藤永田造船所で1939年(昭和14年)10月18日起工[5]。 藤永田造船所で建造された陽炎型は谷風以外に黒潮、 夏潮、浦風、舞風があった。1940年(昭和15年)8月30日 、「谷風(タニカゼ)」と命名[1]。陽炎型15番艦「野分 」も同日附で命名される[1]。11月1日進水[5]。1941年(昭 和16年)4月25日に竣工[5]。同日附で呉鎮守府籍[6]。4月28 日附で第一航空艦隊・第一航空戦隊に編入されるが、5 月1日をもって第17駆逐隊に編入された[7][8]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦長月:除籍日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251031T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251101T150000Z UID:213102703025 DESCRIPTION: 1943年11月1日、駆逐艦「長月」は卯月型駆逐 艦[51]、 第22駆逐隊[52]、 帝国駆逐艦籍[53] のそれぞれか ら除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦初風:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251101T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251102T150000Z UID:174890533501 DESCRIPTION: 1943年11月2日、初風は軽巡洋艦/第十戦隊旗艦 阿賀野の指揮下でブーゲンビル島沖海戦に参加、重巡 妙高と衝突し、米艦隊の集中砲火を受けて沈没した[3] 。11月2日00時45分、時雨の敵艦隊発見報告をきっかけに 約2時間におよぶ夜戦がはじまった。当時の隊形は、主 隊(妙高、羽黒)が中央、第一警戒隊(川内、時雨、 白露、五月雨)が主隊左前方、第二警戒隊は(阿賀野 、長波、初風、若月)の順番で主隊右前方を航行して いた[68]。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、 主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、妙高と艦位を 失った初風の衝突を招いた[69]。妙高と初風の衝突時間 は午前1時7分[69][68]。\n 艦首を失い、戦場に取り残さ れていた初風はアメリカ軍駆逐隊の集中砲火を浴び[70] 、午前2時57分に南緯06度00分 東経153度58分地点で沈没し た[68]。艦長以下164名が戦死した。\n 翌朝、重巡羽黒 からは僚艦妙高の前部左舷に初風の甲板がぶらさがっ ている光景が見られたという[72]。目撃した羽黒の下士 官は「初風の額の皮」という表現を使っている[72]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦蔦:進水日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251101T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251102T150000Z UID:316964450686 DESCRIPTION: 仮称5514号艦、橘型(改松型)駆逐艦3番艦と して横須賀海軍工廠で建造された。1944年7月31日起工、1 1月2日進水。1945年2月8日に竣工した。竣工後、訓練部隊 の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編 入。2月20日に「宵月」とともに横須賀を出港して瀬戸 内海に回航される[2]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦楠:進水日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251101T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251102T150000Z UID:193034130109 DESCRIPTION: 仮称5521号艦、橘型(改松型)駆逐艦として 横須賀海軍工廠で建造された。1944年11月9日起工、1945年 1月8日進水。4月28日に竣工した。竣工後、訓練部隊の第 十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。 缶部に不具合があって修理の後[2]、瀬戸内海に向かう 。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦秋風:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251102T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251103T150000Z UID:285037653065 DESCRIPTION: 1944年10月30-31日、「秋風」はフィリピン方面 への『緊急輸送作戦』に従事する空母「隼鷹」を護衛 することになった[21]。「隼鷹」は空母でありながら航 空機をまったく搭載せず、その格納庫に戦艦「大和」 を含む第二艦隊(栗田艦隊)用の砲弾、第三十一根拠 地隊向けの砲弾、第1挺進集団の一部、第七震洋隊の水 上特攻艇「震洋」50隻と基地隊員130名を搭載したという [21]。 輸送部隊は隼鷹艦長を指揮官とし、空母「隼鷹」 、軽巡洋艦「木曾」、第30駆逐隊(司令澤村成二大佐: 夕月、卯月、秋風)で編制されている[22]。しかし艦隊 の動向は米軍に察知されており、米潜水艦複数(ジャ ラオ、アトゥル、ピンタド等)からなるウルフパック が「隼鷹」を狙っていた[23]。 \n 台湾・馬公市に立ち 寄ったのちブルネイに向け移動中の11月3日夜、米潜水 艦ピンタド(USS Pintado\, SS-387)が「隼鷹」に対して魚雷6本 を発射[23]、これが「秋風」に命中し22時53分、大爆発に より「秋風」の艦体は分断され艦尾は22時58分に沈没し た[24]。「夕月」が救援にあたるが[25]、秋風乗組員は全 員行方不明(戦死認定)となった[26]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦初霜:進水日(1933) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251103T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251104T150000Z UID:314893693433 DESCRIPTION: 1932年(昭和7年)10月1日、日本海軍は浦賀船 渠株式会社に駆逐艦1隻の建造を命じた[4]。12月10日、制 式に初霜と命名した[2]。また姉妹艦2隻(有明、夕暮) 等も命名された[2]。 浦賀船渠で1933年(昭和8年)1月31 日に起工[5][6]。同年10月31日、初霜進水式の最中に事故 が発生、浦賀船渠は進水を中止する[4][7]。 11月4日に進 水式をやりなおした[7][8]。建造途中で同型艦初春の復 元性能不良が判明し、改善工事を施す。\n 1934年(昭 和9年)2月1日、松原博少佐は初霜艤装員長に任命され る[9]。2月12日、浦賀船渠に初霜艤装員事務所を設置す る[10]。 初霜は9月27日に竣工[5][11]、同日附で初霜艤装 員事務所は撤去[12]。松原少佐も初霜初代駆逐艦長とな る[13]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦山雲:起工日(1936) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251103T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251104T150000Z UID:318048103670 DESCRIPTION: 駆逐艦「山雲」は藤永田造船所で建造開始 。1936年(昭和11年)10月22日、「山雲(ヤマグモ)」と 命名[1]。姉妹艦「朝雲」、工作艦「明石」も同日附で 命名されている[1]。同年11月4日に起工、1937年(昭和12 年)7月24日に進水、1938年(昭和13年)1月15日に竣工[4] 。同時に第41駆逐隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦峯雲:進水日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251103T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251104T150000Z UID:161128045180 DESCRIPTION: 1936年(昭和11年)12月14日、日本海軍は建造 予定の水上機母艦2隻・駆逐艦2隻に、水上機母艦「千代 田」と「瑞穂」、朝潮型駆逐艦「峯雲」と「霰」の艦 名を与えた[1]。 藤永田造船所で建造された朝潮型は、 本艦のほかに3番艦「満潮」[5]、6番艦「山雲」[6]の計3 隻である。 駆逐艦「峯雲」は1937年(昭和12年)3月22日 に起工、同年11月4日に進水[7][8]。翌日には神戸川崎造 船所で姉妹艦「朝雲」も進水した[8]。\n 1938年(昭和13 年)1月20日、朝潮型2番艦「大潮」駆逐艦長山代勝守中 佐は峯雲艤装員長を命じられる[9]。 1月27日、藤永田造 船所に峯雲艤装員事務所を設置[10]。本艦は4月30日に竣 工[7]。峯雲艤装員事務所は撤去され[11]、山代中佐も本 艦初代駆逐艦長となった[12]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦満潮:起工日(1935) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251104T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251105T150000Z UID:200566045967 DESCRIPTION: 1935年(昭和10年)9月28日、日本海軍は藤永 田造船所で建造の駆逐艦を満潮、神戸川崎造船所で建 造の駆逐艦を荒潮と命名した[1]。満潮は藤永田造船所 において同年11月5日に起工された[4]。 1937年(昭和12年 )3月15日に進水[4][5]。のちに僚艦となる白露型駆逐艦 涼風より4日遅い進水だった[6]。 7月6日、海軍は吹雪型 駆逐艦暁艦長佐藤康夫中佐を満潮艤装員長に任命した (後任の暁艦長篠田勝清中佐は、レイテ沖海戦時の戦 艦山城艦長)[7]。 7月13日、藤永田造船所に満潮艤装員 事務所を設置[8]。 \n 1937年10月31日に竣工した[4]。佐藤 満潮艤装員長も制式に満潮初代艦長となる[9]。舞鶴工 廠で建造された朝潮型2番艦大潮とは進水は満潮の方が 早く、竣工は同日であった[10]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝雲:進水日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251104T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251105T150000Z UID:127523702502 DESCRIPTION: 神戸川崎造船所で建造予定の駆逐艦「朝雲 」は、1936年(昭和11年)10月22日に命名[1]。同日附で姉 妹艦「山雲」、工作艦「明石」も命名されている[1]。 同年12月23日に起工、1937年(昭和12年)11月5日進水、1938 年(昭和13年)3月31日に竣工[3]。同時に第41駆逐隊に編 入された。同年12月15日、第三予備艦となり横須賀海軍 工廠で蒸気タービン機関の改造工事を実施した(臨機 調事件)。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦巻雲:進水日(1941) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251104T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251105T150000Z UID:255237311715 DESCRIPTION: 駆逐艦「巻雲」は1939年度(マル4計画)仮称 第117号艦として藤永田造船所で建造された。1940年(昭 和15年)12月23日起工[3]。1941年(昭和16年)8月5日、平島 型敷設艇澎湖・鷹島等と共に命名される[1]。「巻雲」 も同日附で一等夕雲型に登録された[4]。同年11月5日進 水[3]。12月20日、巻雲艤装員長として藤田勇中佐[5]が着 任する(藤田は9月まで朝潮型駆逐艦1番艦朝潮駆逐艦長 )[6]。1942年(昭和17年)3月14日に竣工した[3][8]。\n 横 須賀鎮守府籍[10]。横須賀鎮守府警備駆逐艦となった本 艦は、横須賀へ移動した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦桃:起工日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251104T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251105T150000Z UID:329724282582 DESCRIPTION: 1942年戦時建造補充(改⑤)追加計画丁型(一等) 駆逐艦第5484号艦として舞鶴海軍工廠で建造[4]。本艦は1 943年(昭和18年)11月5日起工[6][7]。1944年(昭和19年)1 月25日、『桃」と命名[2]。同日附で3隻(竹、梅、桃) は松型駆逐艦に類別[3]。 3月25日、舞鶴海軍工廠で松型1 番艦「松」や秋月型駆逐艦8番艦「冬月」の艤装が急が れる中[8]、「桃」は進水する[9]。\n 6月10日[16]、本艦 は竣工する(槇の進水と同日)[17][18]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦陽炎:竣工日(1939) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251105T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251106T150000Z UID:163088393888 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で1937年(昭和12年)9月3日に起 工[5]。1938年(昭和13年)4月15日、舞鶴工廠で建造中の 駆逐艦に『陽炎』、浦賀船渠の駆逐艦に『不知火』、 藤永田造船所の駆逐艦に『黒潮』、東京石川島造船所 の測天型敷設艇2番艇に「白神」等の艦名が正式に与え られた[6][1]。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐 艦』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に 類別された[7]。 「陽炎」は同年9月27日に進水した[5][8] 。\n 1939年(昭和14年)2月2日、吹雪型駆逐艦敷波駆逐 艦長山本岩多中佐は陽炎の艤装員長に任命された[9]。2 月6日、舞鶴海軍工廠に陽炎艤装員事務所を設置[10]。 8 月10日附で山本艤装員長は陽炎駆逐艦長(初代)となる [11]。「陽炎」は11月6日に竣工した[5]。起工・進水とも2 番艦「不知火」の方が1番艦「陽炎」より早かったが( 不知火起工1937年8月30日、進水1938年6月28日)、竣工は「 陽炎」の方が先である[12]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦曙:進水日(1930) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251106T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251107T150000Z UID:331853801399 DESCRIPTION: 「曙」は大阪市の藤永田造船所で建造され た。1929年10月25日に起工、1930年11月7日に進水、1931年7月 31日に就役し[1]、一等駆逐艦に類別され、第2艦隊第7駆 逐隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦波風:起工日(1920) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251106T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251107T150000Z UID:307589784707 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1921年11月7日起工、1922 年6月24日進水。同年11月11日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。1922年(大正11年)12 月28日、神風型駆逐艦 (2代)「第一駆逐艦」(「神風」 )と同じく第1駆逐隊に編入され、同型艦「野風」「沼 風」とともに千島、北海道方面の交通保護に当った。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朧:進水日(1930) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251107T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251108T150000Z UID:206707202405 DESCRIPTION: 「朧」は佐世保海軍工廠で建造された[4]。19 29年(昭和4年)11月29日に起工[4]。1930年(昭和5年)11月 8日午前9時30分に進水[5]。 1931年(昭和6年)4月1日、日 本海軍は伊藤皎少佐(前職、駆逐艦「松風」駆逐艦長 )を朧艤装員長に任命[6]。同日附で武田喜代吾少佐も 潮艤装員長に任命されている[6]。 本艦は10月31日に就役 [4]。同日附で柏木英中佐を司令とする第7駆逐隊も編制 された[7]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦野分:起工日(1939) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251107T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251108T150000Z UID:298171759665 DESCRIPTION: 駆逐艦野分は陽炎型駆逐艦のマル3計画での 最終艦(15隻目。陽炎型は次のマル4計画でも4隻建造さ れ計19隻)、仮称第31号艦として舞鶴工廠で建造開始。1 939年(昭和14年)11月8日起工[3]。1940年(昭和15年)8月30 日に「野分(ノワキ)」と命名される[1]。同日附で陽 炎型14番艦谷風や練習巡洋艦香椎、測量艦筑紫等も命名 されている[1]。野分は9月17日に進水[3]。なお登録上は 野分が陽炎型15番艦で16番艦は嵐だが[2]、起工・進水・ 竣工のいずれも野分より嵐の方が早い[4]。 11月15日、日 本海軍は駆逐艦有明・叢雲・東雲艦長等を歴任した古 閑孫太郎中佐を野分艤装員長に任命する[5]。同時期、 野分艤装員事務所を設置[6]。\n 1941年(昭和16年)4月9 日、古閑野分艤装員長は制式に野分初代駆逐艦長とな った[7]。同日附で野分艤装員事務所を撤去[8]。4月28日 、野分は竣工された[3][9]。横須賀鎮守府籍。同日附で 第4駆逐隊に編入された[10]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦天霧:竣工日(1930) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251109T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z UID:226922404186 DESCRIPTION: 石川島造船所で1928年(昭和3年)11月28日に 起工、1930年(昭和5年)2月27日進水、1930年(昭和5年)1 1月10日竣工。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦時津風:進水日(1939) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251109T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z UID:153184315788 DESCRIPTION: 浦賀船渠で建造され、1939年(昭和14年)2月2 0日起工。同年8月25日、姉妹艦の天津風と共に「時津風 (トキツカゼ)」と命名される[1]。11月10日に進水、1940 年(昭和15年)9月1日附で駆逐艦天霧駆逐艦長中原義一 郎中佐は、時津風艤装員長に任命される[3]。なお中原 は、白露型駆逐艦4番艦夕立艤装員長[4]および初代駆逐 艦長[5]だった。 時津風は12月15日に竣工[6]。同日附で中 原艤装員長も制式に時津風初代駆逐艦長となる[7]。呉 鎮守府籍。浦賀船渠で建造された陽炎型としては3隻目 となった。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦皐月:除籍日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251109T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z UID:155296871356 DESCRIPTION: 1944年11月10日、駆逐艦「皐月」は 卯月型駆 逐艦[137]、 第30駆逐隊[138]、 帝国駆逐艦籍[139] のそれぞ れから除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦春風:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251109T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z UID:569270502918 DESCRIPTION: 1945年(昭和20年)11月10日、神風型駆逐艦か ら除籍[18]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦長波:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251111T150000Z UID:209364569958 DESCRIPTION: 11月8日朝、多号作戦第四次輸送部隊を護衛 してマニラを出撃。第三次輸送部隊は11月11日の正午ご ろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直 前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将 )の艦載機347機[59]による空襲を受けた。浜波が真っ先 に被弾し、朝霜は浜波のわずかな生存者を救助した[59] 。続いて若月、部隊指揮官の第二水雷戦隊司令官早川 幹夫少将(海兵44期)座乗の戦隊旗艦島風も被弾し、輸 送船は全滅していた。やがて、激しい対空戦闘の末に 弾薬が尽きた長波は右舷艦橋下に被弾し、艦右側にも 至近弾を浴びた。間もなく右側に傾斜した後、長波は 艦首を上げて沈没していった。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦涼波:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251111T150000Z UID:168904237978 DESCRIPTION: 1943年11月11日早朝、第2回のラバウル空襲が 行われた[107][108]。第38任務部隊はブーゲンビル島北方 から、第50.3任務部隊は同島南方から挟み撃ちの格好で 艦載機を発進させた[106]。\n 本空襲で阿賀野型軽巡洋 艦1番艦「阿賀野」が魚雷命中により艦尾切断の被害を 受け[123][108]、夕雲型4番艦「長波」が大破[124][125]。 南 東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の下令によりラ バウル在泊艦艇(能代、阿賀野、摩耶《11月5日空襲で 大破、ラバウル在泊》、長鯨、浦風、若月、風雲、早 波、藤波、五月雨)[126][127]はトラック泊地に撤退し[108 ]。ラバウルに残る第二水雷戦隊は第31駆逐隊(大波、 巻波、長波《航行不能状態》)となった[128]。 このう ち夕雲型2隻(大波、巻波)も11月24日のセント・ジョー ジ岬沖海戦で沈没[129][130]、「長波」のみラバウルに取 り残された[125]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦浜波:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251111T150000Z UID:287580019614 DESCRIPTION: 1944年11月9日未明3時、浜波は多号作戦第三次 輸送作戦を護衛してマニラを出撃[9]。11月10日21時、第 三次輸送部隊はマスバテ島東方のブラックロック水道 で、先にオルモック湾への輸送を行った第四次輸送部 隊(木村昌福少将・第一水雷戦隊司令官・海兵41期)と すれ違い、初春と竹を第四次輸送部隊に移した上で、 朝霜、長波、若月を第三次輸送部隊に加入させた。\n  第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に 到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジ ョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機[10]によ る空襲を受けた。浜波は艦首に被弾して艦首が垂れ下 がり、他に三発被弾して舵も損傷した[11]。重傷を負っ た大島一太郎司令(海兵50期)と駆逐艦長本倉正義中佐 (海兵51期)を含む乗員11名が横付けした朝霜に救助さ れた後、艦は放棄された。浜波の船体がその後どうな ったのかは定かではない。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦島風:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251111T150000Z UID:738057839870 DESCRIPTION: レイテ沖海戦の後、島風はブルネイ湾を経 てマニラに進出しレイテ島行きの多号作戦に投入され た[83]。1944年11月11日未明、前日のB-24 からの通報を受け た魚雷艇隊の襲撃を受けるが跳ね返す[266]。しかし、最 大の脅威である第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・ シニア中将)が迫りつつあった。対空戦闘に際して、 早川少将は誘爆を防ぐため魚雷を投棄させた[271]。狭い 湾内での戦闘だったが、その速力と的確な操艦により 、爆弾や魚雷の直撃こそ受けなかった[271]。しかし、多 数の至近弾と機銃掃射により船体に多数の小破孔が発 生して浸水、機関からも蒸気が噴出して回転数が急速 に低下、航行不能となる[273]。島風では内火艇やカッタ ーボートを海面に下したものの損傷により水没し、鈴 木・松原参謀、駆逐艦長・機関長など合計21名は、沈没 寸前に唯一残ったカッターに乗って島風を離れた[281]。 午後5時30分、島風は後部附近の爆発により沈没した[282] [246]。島風には行動不能の重傷者が多数残されていたが 爆沈時に戦死、既に艦を離れていた乗組員も全員行方 不明となった[283]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦疾風:起工日(1922) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251111T150000Z UID:982414878917 DESCRIPTION: 1922年11月11日、第十三駆逐艦(疾風)は石川 島造船所で起工[15][2]。 1924年4月24日、「第十三駆逐艦 」の艦名は「第十三号駆逐艦」に改正[17][18]。 12月1日 、旧「疾風」は駆逐艦籍より除籍[5][19]。翌年7月、廃船 処分となり「廃駆逐艦5号」と改称後、呉海軍工廠でし ばらく保管されていた[20][21]。\n1925年(大正14年)3月23 日午後4時、第13号駆逐艦(疾風)は進水[22][15]。1925年 (大正14年)12月21日、第13号駆逐艦(疾風)は竣工した [15][2]。\n 1928年(昭和3年)8月1日附で「第十三号駆逐 艦」は「疾風」と改名[8][28]。これに伴い、第一号型駆 逐艦は神風型駆逐艦と改名される[29]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦若月:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251111T150000Z UID:685211221137 DESCRIPTION: 1944年11月8日朝、多号作戦第四次輸送部隊を 護衛してマニラを出撃。翌11月9日夕方にオルモック湾 に到着するも、大発が揃わなかったため兵員しか陸揚 げできなかった[96]。11月10日、輸送部隊はオルモック湾 を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25 とP-38 の 攻撃を受けて陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5\,657トン )と輸送船香椎丸(大阪商船、8\,407トン)が沈没。輸 送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将( 海兵41期。霞座乗)は駆逐艦3隻(霞、朝霜、長波)に 救助作業を担当させ、秋霜以下の艦艇は輸送船金華丸 (大阪商船、9\,305トン)の護衛につけてマニラへ先発 させた[97]。 この後、木村少将から朝霜・長波とともに 第三次輸送部隊と合流するよう命令を受ける。21時にマ スバテ島東方のブラックロック水道で第三次輸送部隊 (指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官、旗艦島風)に 合流した[98]。\n 第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろ にオルモック湾に到着する予定であったが、その直前 に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将) の艦載機347機[99]による空襲を受ける。前部と後部に爆 弾が命中して北緯10度50分 東経124度31分の地点に沈没[100 ]。駆逐艦長鈴木保厚大佐[101]以下290名が戦死[102]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦羽風:起工日(1919) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251111T150000Z UID:281131075311 DESCRIPTION: 三菱長崎造船所で建造。1918年11月11日起工、 1920年6月21日進水。同年9月16日に竣工した。一等駆逐艦 に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦波風:竣工日(1922) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251110T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251111T150000Z UID:374984826537 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1921年11月7日起工、1922 年6月24日進水。同年11月11日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。1922年(大正11年)12 月28日、神風型駆逐艦 (2代)「第一駆逐艦」(「神風」 )と同じく第1駆逐隊に編入され、同型艦「野風」「沼 風」とともに千島、北海道方面の交通保護に当った。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夕立:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251112T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z UID:492270652289 DESCRIPTION: 1942年11月12日、第三次ソロモン海戦第一夜戦 。混乱する状況下で夕立は敵発見を報告する[117][105]。 続いて比叡の照射攻撃に米艦隊の注意が集まる間に距 離を詰め、魚雷発射態勢に入った[118][119]。魚雷発射後 、夕立は右に転舵したため、左に転舵した春雨を見失 い、単艦で米艦隊へ突入していった[120][121][122]。\n 米 艦隊の中央を突破して敵を混乱に陥れ大きな戦果を挙 げた夕立だったが、00時26分前後に右前方から探照灯で 照射され、続いて右舷と左舷の両方から砲撃を受け被 弾する[126][122]。砲撃を受けた夕立は味方識別を行った が射撃はやまず、この「敵艦」に砲戦を企図したとこ ろに直撃弾複数を受け大破、吉川艦長以下幹部将校も 負傷[128]。機関室に損傷を受け、操舵装置も故障[122]。 サボ島165度9浬の地点で航行不能となった[124]。\n 11月1 3日1時15分、第2駆逐隊の姉妹艦五月雨は夕立の救援を命 じられて捜索を開始、1時55分前後に夕立を発見して接 近していった[133][130]。五月雨から見た夕立は艦首を喪 失し、火災が艦尾に広がりつつあったという[134]。2時26 分、退去決定[135]。横付けして夕立の乗組員を移乗させ た五月雨は、夕立を雷撃処分のため2時44分に魚雷2本を 発射、だが魚雷は艦底を通過し、2時53分に再度魚雷1本 を発射すると砲撃処分を開始する[136]。戦闘詳報の報告 とは裏腹に魚雷は命中していなかったが、夕立は傾斜 を増した[137]。このあと五月雨は米重巡洋艦(ポートラ ンド)に捕捉された上に、日の出と共にアメリカ軍機 の襲撃も予想された為、夕立の沈没を確認しないまま 戦域を離脱した[138]。五月雨駆逐艦長に「まことにすま ないが、もう一度引き返して魚雷を撃って貰えないか 」と頼む吉川艦長の姿も目撃された[139]。\n 結局、放 棄された夕立は重巡洋艦ポートランド (USS Portland\, CA-33) の砲撃により、六斉射目に起きた艦後部の爆発によっ てアイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)に沈没した[1 40]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦暁:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251112T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z UID:210420236176 DESCRIPTION: 1942年11月13日、暁は戦艦護衛の任務につき、 日本艦隊の先頭に位置していた。アメリカ艦隊と次第 に接近する中、午前1時50分、第三次ソロモン海戦・第 一夜戦の劈頭、暁の探照灯がアメリカ艦隊の軽巡洋艦 アトランタを照射した。そのためアメリカ艦隊からの 砲弾が暁に集中し、一瞬にして航行不能に陥った。艦 橋内では、山田勇助司令、高須賀駆逐艦長、航海長、 新屋水雷長などの僅かな士官は生存していたが、砲術 長とその部下全員、新屋水雷長の部下全員などが戦死 し、操舵装置も破壊された。新屋は艦後部の予備操舵 装置を作動させようと混乱した艦内を進んだが、火災 のため近づくことが不可能であった。暁は制御を失い 漂流し、ついに右に傾き転覆沈没した。砲撃を受けて から15分ほど後のことであった。新屋は艦橋から海に飛 び込み、朝には周りに30名から40名ほどの乗組員が生存 していたが、アメリカ軍の上陸用船艇に救助され捕虜 となったのは、僅かに18名であった。特III型としても、 第六駆逐隊としても、最初の犠牲艦となった。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦初春:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251112T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z UID:305462758339 DESCRIPTION: 1944年10月31日、第一水雷戦隊司令官木村昌福 少将の指揮下、第二次多号作戦に警戒隊の駆逐艦6隻( 霞《第一水雷戦隊旗艦》、沖波《牧野担艦長》、曙、 潮、初霜、初春)として参加し、オルモックへの突入 に成功した[82][83]。 \n 11月13日、マニラ湾に停泊中の 艦艇は米空母機動部隊艦載機の空襲を受ける。本艦以 下、軽巡「木曾」、駆逐艦4隻(初春、曙、沖波、秋霜 )等と共に沈没/大破着底した[93][94]。大熊(初春艦長 )によれば、至近弾で火災が発生し、また船体から燃 料が漏洩[74]。大火災となって手がつけられなくなり、 軍艦旗降下のあと総員退去となったという[74]。 その後 、生存者の一部は陸上兵力として再配置された[95]。同 日深夜、残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹)はマニ ラを出港し、シンガポールへ向かった[96][97]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦沖波:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251112T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z UID:517889334642 DESCRIPTION: 1944年11月13日に第38任務部隊の艦載機がマニ ラを空襲した。朝からの波状攻撃により軽巡「木曾」 、駆逐艦複数隻(曙、初春、秋霜)などマニラ在泊中 の艦船は次々と被害を受けた[141][142]。 「沖波」もマニ ラ湾にて攻撃を受けて損傷、火災が発生した[143][144][145 ]。朝霜等の救援により陸岸に移動して消火に成功した が、浸水が進み着底した[145]。この時点で、「沖波」に 残る乗組員は約30数名となった[145][146]。沈没していた 夕雲型13番艦浜波が書類上第31駆逐隊に編入された[149] 。第31駆逐隊4隻(長波、岸波、沖波、浜波)、のうち3 隻(長波、沖波、浜波)は沈没もしくは大破着底状態 のため書類上の存在に過ぎなかった[149]。\n その後1945 年(昭和20年)1月7日、「沖波」は爆破処理された[6]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦秋霜:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251112T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z UID:322189625651 DESCRIPTION: 秋霜はレイテ島への陸軍部隊輸送作戦(多 号作戦)に投入される事となった。11月11日午前5時、木 村司令官直率の駆逐艦3隻(霞、初春、竹)は第四次輸 送部隊と合流[115]。18時、輸送部隊(霞、潮、秋霜、初 春、竹、沖縄、金華丸)はマニラに到着して任務を終 えた[116][104]。\n 11月13日午後、マニラはアメリカ軍第3 8任務部隊の艦載機の攻撃を受けた。第5蓬莱丸は船体後 部に直撃弾を受け、同日中に大破着底。曙は直撃弾1発 ・至近弾10数発を受けて大破した[123]。秋霜も一番砲塔 前方と後部甲板に直撃弾3発を受け火災が発生、その後 火薬庫に誘爆して炎上した[123]。秋霜は翌14日5時に右舷 を下にして転覆し、艦橋部が海底に埋まった状態で着 底、曙も同じ14日朝に艦橋部のみを海面上に露出させて 着底した[120][123]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦照月:起工日(1940) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251112T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z UID:211251922033 DESCRIPTION: 1939年(昭和14年)度(マル4計画)の第105号 艦[4]。1940年(昭和15年)11月13日、三菱重工業長崎造船 所で起工[4]。1941年(昭和16年)10月25日に命名[2]、同日 附で一等駆逐艦秋月型に類別される[5]。「照月」は真 珠湾攻撃直前の11月21日に進水[4]。本艦は8月31日に竣工 して佐世保鎮守府籍となる[12][4][13]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦白露:起工日(1933) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z UID:268397859752 DESCRIPTION:「白露」は佐世保工廠で1933年(昭和8年)11月1 4日に起工[6]。同年12月15日、初春型駆逐艦「有明、夕暮 」は初春型から除かれ、『一等駆逐艦有明型』が登録 された[7]。同日附で建造中の有明型3隻に対しそれぞれ 「白露(シラツユ)」、「時雨(シグレ)」「村雨( ムラサメ)」の艦名が与えられる[1]。1934年(昭和9年) 11月19日、有明型駆逐艦は登録を抹消されて「有明、夕 暮」は初春型に戻り、あらたに白露型駆逐艦が新設、 有明型3番艦だった「白露」は同型の1番艦(ネームシッ プ)となった[7]。1935年(昭和10年)4月5日に進水[6]。193 6年(昭和11年)8月20日に竣工した[6]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦曙:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z UID:229423502116 DESCRIPTION: 1944年11月5日、マニラ湾一帯を米軍が空襲し 、停泊中の「曙」は直撃弾2発を受けて炎上、航行不能 となった。「曙」はキャヴィテ桟橋(北緯14度35分 東経 120度55分座標: 北緯14度35分 東経120度55分)の第一〇三工 作部の修理を受けるべく、キャビテ港第2桟橋に係留さ れた。この時、機関故障を起こした2ET型戦時標準船の 第5蓬莱丸(蓬莱タンカー、834総トン)が同桟橋に回航 されており、11月11日には第四次多号作戦に参加中に空 襲を受け、艦首切断を起こしていた「秋霜」も同桟橋 に回航され、岸壁から第5蓬莱丸、「曙」、「秋霜」の 順番で係留されていた[6]。\n 11月13日午後、米航空母 艦艦載機がマニラ湾を再び空襲する。第5蓬莱丸は船体 後部に直撃弾を受けて同日中に大破着底。「曙」は直 撃弾1発・至近弾10数発を受けて左舷に傾斜し、その外 側にいた「秋霜」も一番砲塔前方と後部甲板に直撃弾3 発を受け、弾薬庫が誘爆して炎上する。\n 「曙」は翌 14日朝に艦橋部のみを海面上に露出させて着底し、「秋 霜」も同じ14日朝に右舷を下にして転覆し、艦橋部が海 底に埋まった状態で着底した[6]。乗員48人が戦死し、43 人が負傷した[9]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦潮:竣工日(1931) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251113T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z UID:259467364436 DESCRIPTION: 駆逐艦「潮」は浦賀船渠で建造[3]。1929年( 昭和4年)12月24日に起工[3]。一等駆逐艦に類別された。 1930年(昭和5年)11月17日に進水[3][4]。1931年(昭和6年) 11月14日に竣工[3]。第7駆逐隊に編入。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦吹雪:除籍日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:365268122860 DESCRIPTION: 1942年11月15日、サボ島沖海戦で沈没した夏雲 、叢雲と共に吹雪も除籍された[144][145]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦吹雪:進水日(1927) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:289845169009 DESCRIPTION: 第35号駆逐艦の艦名は、既に浦風型駆逐艦浦 風で使われていた[6]。 吹雪は舞鶴工作部で1926年(大正 15年)6月19日に起工[7]。6月25日、浦賀船渠で建造の駆逐 艦に第三十三号駆逐艦(望月)[8]、本艦に「第三十五号駆 逐艦」、佐世保海軍工廠の駆逐艦に第四十号駆逐艦(東 雲)の艦名が与えられる[9]。同日附で「第33号駆逐艦、 第35号駆逐艦、第40号駆逐艦」は一等駆逐艦に類別[10]。 \n 「第35号駆逐艦」は1927年(昭和2年)11月15日に進水 、1928年(昭和3年)8月1日、「吹雪」と改称された[1]。 改名から間もない8月10日に竣工[7]。 吹雪型初期姉妹艦 (吹雪、白雪、初雪、深雪)と共に第11駆逐隊を編制し ていた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦叢雲:除籍日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:298867750032 DESCRIPTION: 1942年11月15日、サボ島沖海戦で沈没した駆逐 艦4隻(吹雪、叢雲、夏雲、朧)の除籍が決定[150]。2隻 (吹雪、叢雲)は第11駆逐隊からも除かれた[151]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦綾波:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:280052853874 DESCRIPTION: 1942年11月14日から翌日にかけて行われた第三 次ソロモン海戦の第二夜戦で「浦波」、「敷波」とと もに第2艦隊第3水雷戦隊に所属していた。「綾波」と航 行していた「川内」は「浦波」隊支援のため分離、サ ボ島北側を通って「浦波」隊に合同すべく急速に「綾 波」から離れていった。こうして「綾波」のみで当初 の予定通りサボ島西側を哨戒航行することとなり、戦 況が進む中、「綾波」は戦艦2隻駆逐艦4隻の米艦隊に対 し単艦で突入する格好になってしまった。\n 単艦でめ ざましい戦果は挙げたものの、米駆逐艦の砲撃と戦艦 「ワシントン」の副砲射撃による反撃で「綾波」は次 々と命中弾を受け被害甚大となって漂流を始めた「綾 波」。喫水線下への被弾はなかったため浸水はしなか ったものの上甲板の火災は既に消火不能となっており 、魚雷の誘爆は時間の問題と見た艦長は総員退艦を下 令。生存者は全員海へ飛び込み救助に駆けつけた浦波 に収容された。\n 「浦波」に生存者全員が救助された 後、23:46に遂に魚雷が誘爆。翌11月15日の00:06、2度目の 大爆発をおこした後綾波は沈んでいったという。戦闘 での戦死者は27名。浦波に収容された後に死亡した者も 含めて戦死者は42名であった。生存者の一部はガダルカ ナル島へ渡った。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朧:除籍日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:234042116712 DESCRIPTION: 1942年11月15日[84]、駆逐艦「朧」はサボ島沖 海戦で沈没した駆逐艦3隻(吹雪、叢雲、夏雲)と共に 除籍された[85]。またネームシップの「吹雪」喪失によ り同日附で『吹雪型駆逐艦』は『白雪型駆逐艦』と改 定され、「朧」は白雪型駆逐艦より除籍された[86]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦電:竣工日(1932) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:520646931984 DESCRIPTION: 駆逐艦「電」は藤永田造船所で1930年(昭和5 年)3月7日起工[5]。姉妹艦「雷」も「電」と同日附の起 工である[6]。同年3月15日、建造中の吹雪型駆逐艦4隻に 対し、佐世保海軍工廠の1番艦に「暁(アカツキ)」、舞 鶴要港工作部の2番艦に「響(ヒビキ)」、浦賀船渠株式 会社の3番艦に「雷(イカヅチ)」、藤永田船渠の4番艦( 本艦)に「電(イナヅマ)」の艦名が正式に与えられる[3] 。「電」は1932年(昭和7年)2月25日に進水、同年11月15 日に竣工した[5]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夏雲:除籍日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:310498240771 DESCRIPTION: 1942年11月15日、サボ島沖海戦で沈没した駆逐 艦3隻(吹雪、叢雲、夏雲)と北方海域で沈没した「朧 」の除籍が決定[134]。「夏雲」は第9駆逐隊[135]、朝潮型 駆逐艦[136]から削除された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦大波:起工日(1941) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:190641419134 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第122号艦として藤 永田造船所で建造。1941年11月15日起工。1942年(昭和17年 )6月20日、本艦に『大波』、夕雲型8番艦に『清波』の 艦名が与えられた[1]。同日附で2隻(大波、清波)は夕 雲型駆逐艦に類別された[5]。 8月13日進水。11月15日附で 平山敏夫少佐は大波艤装員長ならびに吹雪型駆逐艦白 雲艦長に任命される[6]。 12月20日附で平山艤装員長は免 職[7]。後任として吉川潔中佐(夕立沈没時駆逐艦長) が本艦艤装員長に任命された[8]。 \n 本艦は12月29日に 竣工(初月と同日)[9][10]。舞鶴鎮守府籍となる[11]。同 日附で3隻(涼月、初月、大波)は警備駆逐艦に定めら れた[11][12]。本艦は呉鎮守府直率部隊に編入される[13] 。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦清波:起工日(1941) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:136205017884 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第123号艦として浦 賀船渠で建造。1941年11月15日起工。1942年(昭和17年)6 月20日、夕雲型7番艦に『大波』、本艦に『清波』の艦 名が与えられる[3]。同日附で2隻(大波、清波)は夕雲 型駆逐艦に類別された[6]。 8月17日、進水[1]。 同年12月1 日附で陽炎型駆逐艦17番艦「萩風」駆逐艦長畑野健二少 佐は、本艦艤装員長に任命される[7]。12月3日、浦賀船 渠に艤装員事務所を設置[8]。 \n 本艦は1943年(昭和18 年)1月25日に竣工[11][2]。艤装員事務所を撤去[12]。正式 に舞鶴鎮守府籍となり、警備駆逐艦に指定となる[13][14] 。そのまま横須賀鎮守府部隊に編入された[15]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦皐月:竣工日(1925) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:278098321734 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1923年(大正12 年)7月19日、藤永田造船所で建造予定の駆逐艦に「第 二十七駆逐艦」の艦名が与えられる[5]。同日附で駆逐 艦として登録される[6]。当初は大正14年2月末の竣工を 目指していた[7]。1923年(大正12年)12月1日に起工した が[8]、これは1番艦から4番艦の起工日よりも早かった。 1924年(大正13年)4月24日、艦名を「第二十七号駆逐艦 」に改正[9]。1925年(大正14年)3月25日に進水、同年11月 15日に竣工[10]。佐世保鎮守府に所属した。\n 1928年( 昭和3年)8月1日附で「第二十七号駆逐艦」は「皐月」 と改名された[1]。「皐月」に改名後、書類上の起工日 は1924年(大正13年)12月1日に改められている[10] LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦島風(初代):竣工日(1920) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251114T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z UID:132444987189 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1919年9月5日起工、1920 年3月31日進水。同年11月15日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。竣工後直ちに第3駆 逐隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦霰:進水日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251115T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251116T150000Z UID:280920413468 DESCRIPTION: 1936年(昭和11年)12月14日、海軍省は建造予 定の水上機母艦2隻に千代田と瑞穂、朝潮型駆逐艦2隻に 峯雲と霰の艦名を与える[1]。舞鶴海軍工廠で建造され た朝潮型は、2番艦大潮と霰のみである。霰は1937年(昭 和12年)3月5日に起工[3]。同年11月16日に進水[3][4]。空母 飛龍と同日附の進水である[4]。\n 1939年(昭和14年)3 月1日、大原艤装員長は正式に霰初代駆逐艦長となる[7] 。同日附で霰艤装員事務所を撤去[8]。霰は4月15日に竣 工した[3]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦潮:進水日(1930) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251116T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251117T150000Z UID:277050900251 DESCRIPTION: 駆逐艦「潮」は浦賀船渠で建造[3]。1929年( 昭和4年)12月24日に起工[3]。一等駆逐艦に類別された。 1930年(昭和5年)11月17日に進水[3][4]。1931年(昭和6年) 11月14日に竣工[3]。第7駆逐隊に編入。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝霧:進水日(1929) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251117T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251118T150000Z UID:908910068898 DESCRIPTION: 佐世保海軍工廠で建造。1928年12月12日に起工 、1929年11月18日に進水。1930年6月30日に竣工した。一等 駆逐艦に類別された。1930年(昭和5年)12月1日、「天霧 」と第8駆逐隊を編成し、第2水雷戦隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦霞:進水日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20251117T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20251118T150000Z UID:173567320748 DESCRIPTION:  1936年(昭和11年)1月20日、日本海軍(海軍 大臣大角岑生大将)は、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦1 隻を「朝雲(アサグモ)」と命名した[6]。 6月19日、日 本海軍(海軍大臣永野修身大将)は「朝雲」を「霞」 と改名した[2]。 10月22日、日本海軍は改めて神戸川崎造 船所で建造する朝潮型5番艦を「朝雲」、藤永田造船所 で建造予定の6番艦を「山雲」と命名している[7]。 「霞 」は浦賀船渠で1936年(昭和11年)12月1日に起工[8]。 1937 年(昭和12年)11月18日に進水[8][9]。\n 1939年(昭和14年 )4月15日、「霞」より遅れて建造が始まった同型艦「 霰(アラレ)」が舞鶴海軍工廠で竣工(進水も霞より2 日早い)[13]。6月下旬、霞艤装員事務所を撤去[14]。 「 霞」は6月28日に竣工した[8]。 LOCATION: END:VEVENT END:VCALENDAR