BEGIN:VCALENDAR VERSION:2.0 PRODID:-//chikkutakku.com//RDFCal 1.0//EN X-WR-CALDESC:GoogleカレンダーやiCalendar形式情報を共有シェ アしましょう。近所のイベントから全国のイベントま で今日のイベント検索やスケジュールを決めるならち っくたっく X-WR-CALNAME:ちっくたっく X-WR-TIMEZONE:UTC BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦雪風:起工日(1938) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250801T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250802T150000Z UID:138456672533 DESCRIPTION: 雪風は陽炎型8番艦(マル3計画の仮称艦名第 24号艦)として佐世保工廠で建造された。1938年(昭和13 年)8月2日に起工[3]。1939年(昭和14年)1月24日、雪風( ユキカゼ)と命名された[1]。佐世保海軍工廠で建造さ れた陽炎型駆逐艦は、雪風と陽炎型12番艦磯風のみであ る[4][5]。3月24日に進水[3]。1940年(昭和15年)1月20日に 竣工した[6][3]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦春月:進水日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250802T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250803T150000Z UID:255934393155 DESCRIPTION: 1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)に よる乙型一等駆逐艦の第362号艦として佐世保海軍工廠 で1943年(昭和18年)12月23日に起工[5]。1944年(昭和19年 )8月3日に進水[5]。同年12月28日に竣工した[5][7]。当初 は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、線表 改訂により佐世保海軍工廠での建造に変更された[8]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦松:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250803T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250804T150000Z UID:117790866662 DESCRIPTION: 1944年8月4日、第一空母部隊(ホーネットⅡ 、フランクリン、カボット)と第二空母部隊(バンカ ー・ヒル、レキシントンⅡ、サン・ジャシント)から 攻撃隊が発進[50]。艦載機は二波に分かれて襲来した[43] 。「松」は第一次空襲で5機撃墜を報じた[51][52]。空襲 後の第四八〇四船団および父島在泊艦艇は全滅状態と なる[53][54]。 健在艦は「松」と第4号海防艦(戦死4、負 傷21)、「利根川丸」を残すのみとなり[55]、損傷した 第12号海防艦(戦死6、負傷50)は別途で横須賀に向かっ ていた[56][50]。\n 19時40分、「松」は第4号海防艦に対 し『われ、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す 』と最期の打電をおこなう[55][64]。この後、「松」は消 息不明となった[65]。アメリカ側の記録では、聟島北東2 5海里地点で、モービルが指揮下の駆逐艦とともに「松 」と「利根川丸」を撃沈したとある[68]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦大潮:起工日(1936) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250804T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250805T150000Z UID:828489063388 DESCRIPTION: 1935年(昭和10年)9月6日、日本海軍は佐世保 海軍工廠で建造予定の駆逐艦を「朝潮」、舞鶴要港工 作部で建造の駆逐艦を「大潮」と命名した[3][6]。同日 附で朝潮型駆逐艦が新設される[7]。 本艦は舞鶴海軍工 廠で1936年(昭和11年)8月5日に起工[8][9]。 1937年(昭和1 2年)4月19日に進水[9][10]。舞鶴要港部司令官中村亀三郎 中将は『のどかなる さくらさきそう 春の海に し ぶきたてゆく ふなおろし見る』という自作の和歌を 記念として贈った[4]。 7月5日、舞鶴海軍工廠に大潮艤 装員事務所を設置[14]。 7月7日、中国大陸で盧溝橋事件 が勃発、上海方面に派遣する駆逐艦が必要になったた め、艤装工事を急いだ[4]。\n 1937年10月5日、山代艤装 員長は正式に大潮初代駆逐艦長となる[15]。本艦は10月31 日に竣工[16]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦沖波:起工日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250804T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250805T150000Z UID:176606302403 DESCRIPTION: 1942年度(マル急計画)仮称第342号艦として 舞鶴海軍工廠で建造されることになり、1942年(昭和17 年)8月5日起工[9][1]。\n 1943年7月18日、「沖波」は進水 した[24][2]。本艦は12月10日に竣工[3][4][33]、沖波艤装員 事務所は撤去された[34]。牧野艤装員長も、正式に沖波 駆逐艦長(初代)となった[35]。舞鶴鎮守府籍。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦嵐:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250805T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250806T150000Z UID:274396963554 DESCRIPTION: 1943年(昭和18年)8月6日、ブインおよびコロ ンバンガラ島への輸送のため増援部隊はラバウルを出 港、第三水雷戦隊旗艦(司令官伊集院松治少将)の軽 巡川内(陸兵450名、物資130トン)はブインへ向かい、 駆逐艦4隻(萩風《第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐座乗》、 嵐、江風、時雨)はコロンバンガラ島へ向かう[193][198] 。 同日夜、コロンバンガラ輸送隊はソロモン諸島コロ ンバンガラ島沖(ベラ湾)にて、フレデリック・ムー スブラッガー中佐指揮下の米水上部隊(駆逐艦6隻)と 交戦した(ベラ湾夜戦)[201]。戦闘当時の天候は曇りで 視界不良[200]。萩風-嵐-江風-時雨の単縦陣はアメリカ軍 のレーダーに捕捉され、先制雷撃を受けた[202][198]。敵 艦隊に気付いたものの回避は間に合わず、まず江風が 轟沈した[203][198]。 その後の砲撃により第4駆逐隊2隻( 嵐、萩風)も相次いで沈没した[204]。\n 嵐は左舷への 被雷と共に主砲も魚雷発射管も使用不能となり、搭載 していた陸軍物資弾薬に引火して炎上[204]。前部に残っ ていた25mm機銃で最後まで反撃に努めた[207][208]。しかし 米艦隊の砲撃により、間もなく沈没している[204]。嵐で は艦長以下178名が戦死(艦長は脱出したものの生還せ ず)[209]、生存者は嵐、萩風各艦約70名、江風約40名[210] 。三隻が分乗させていた陸軍兵は940名中約820名が戦死 した[211][212]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦萩風:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250805T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250806T150000Z UID:408860789807 DESCRIPTION: 1943年7月25日、第4駆逐隊司令指揮下の駆逐艦 3隻(萩風、嵐、時雨)はサンタイサベル島レカタ輸送 を実施、揚陸に成功して28日夕方ラバウルへ戻った[106] 。ニュージョージア島での戦局は悪化する一方であり 、日本軍はさらなる増援部隊を投入する。\n 8月6日、 コロンバンガラ輸送隊はブインへ向かう川内と分離後 、萩風-嵐-江風-時雨の単縦陣を形成し、30ノットを 発揮して目的地に近づいた[111][113]。各艦の開距離は500 mだったが、3番艦江風と最後尾時雨の距離は1000mに開 いていた[114]。海面には薄い靄がたちこめ、視界は不良 だったという[115] [116] [117]。 日中の時点で輸送隊はア メリカ軍哨戒機に捕捉され、行動を報告されていた[117] 。アメリカ軍駆逐艦6隻はレーダーを装備しており、日 本艦隊に対して先制攻撃を敢行する[118]。米水雷戦隊は 24本の魚雷を発射[119]。日本艦隊が米艦隊に気付いた時 には次々に魚雷が命中し、江風は轟沈した[120]。 第4駆 逐隊(萩風、嵐)も被雷して戦闘不能となった[116]。 萩風には魚雷2本が命中し[121][122]、 主砲や魚雷発射管 は使用不能となったため使用可能の機銃で反撃を実施 した[121]。だが2隻は続く米駆逐艦隊の砲撃によって炎 上し、嵐は22時10分前後に沈没、萩風も総員退去後の22 時18分に沈没した[123][124][125]。\n 米艦隊は時雨の追跡 を打ち切ったのち戦闘海域に戻り、萩風以下沈没艦3隻 の生存者を救助しようとしたが、ほとんどの者は救助 を拒んだという[131]。戦死者約170名以上[132]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦江風:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250805T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250806T150000Z UID:338326796100 DESCRIPTION: 1943年8月6日21時30分、コロンバンガラ島とベ ララベラ島に挟まれたベラ湾を哨戒するアメリカ軍駆 逐隊は、レーダーで南南東へ進む日本艦隊を探知する と、魚雷24本を発射した[236][234]。萩風-嵐-江風-時雨の 単縦陣を形成していた日本艦隊は、駆逐艦3隻(萩風、 嵐、江風)が同時に被雷、回避できたのは「江風」の 後方1000mを航行していた「時雨」だけだった[237][238]。 \n 「江風」はスタレット(USS Sterett\, DD-407)、スタッ ク(USS Stack\, DD-406)からの砲撃雷撃を受け沈没、柳瀬 艦長以下169名が戦死した[240]。ほぼ轟沈であった[241][242 ]。沈没地点記録南緯07度50分 東経156度54分。また第4駆 逐隊(萩風、嵐)も一方的に撃沈された[232]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦樫:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250806T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250807T150000Z UID:124398058583 DESCRIPTION: 1945年12月1日に特別輸送艦に指定され、復員 輸送に従事した。終了後は賠償艦として1947年(昭和22 年)8月7日に佐世保でアメリカに引渡されるが、そのま ま売却。10月27日から1948年(昭和23年)3月20日にかけて 笠戸ドックで解体された[34]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦島風:起工日(1941) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250807T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250808T150000Z UID:193482890694 DESCRIPTION: 1941年(昭和16年)8月8日、舞鶴海軍工廠で起 工。 1942年(昭和17年)5月15日、第125号艦を島風(シマ カゼ)と命名[20]。艦艇類別等級別表に(艦型なし)島風 として登録される[37]。なお同日附で阿賀野型軽巡洋艦 能代[38]、秋月型駆逐艦5番艦新月も命名されている[20] 。 当時の舞鶴海軍工廠は、秋月型駆逐艦2隻(秋月、初 月)や夕雲型駆逐艦4隻(巻波、340号艦早波、341号艦浜 波、342号艦沖波)の建造[39][40]、軽巡4隻(那珂、名取 、天龍、龍田)や駆逐艦複数隻(薄雲、大潮、霞、不 知火、初春)等の修理整備工事を抱えており[41]、島風 の建造もその中でおこなわれた。 島風は7月18日に進水 した[42]。同日附で呉鎮守府籍[43]。\n 1943年(昭和18年 )3月20日附で、広瀬弘中佐(駆逐艦春雨艦長等を歴任 、朝潮型駆逐艦2番艦大潮沈没時の駆逐艦長。3月15日附 で同艦駆逐艦長免職[44])が島風の艤装員長に任命され た[45]。 4月に各種の試験をおこなったが、巡航機械に 不具合がみつかり、竣工予定日を延期した[46]。島風は5 月10日に竣工、海軍に引き渡された[47]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦松:起工日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250807T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250808T150000Z UID:115760910855 DESCRIPTION: 丁型一等駆逐艦第5481号艦として舞鶴工廠で 建造[3]。1943年(昭和18年)8月8日、起工[3][4]。同年12月2 2日、命名[1]。同日附で駆逐艦一等の部中に松型が新設 され、その1番艦に定められる[2]。 1944年(昭和19年)2 月3日に進水し[8]、本籍を舞鶴鎮守府に定められる[9]。\ n 4月28日、竣工[11][16]。訓練部隊の第十一水雷戦隊( 司令官高間完少将・海軍兵学校41期[17])に編入され、5 月1日に舞鶴を出港して呉に回航された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦天津風:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:325356972511 DESCRIPTION: 駆逐艦天津風は8月10日附で 帝国驅逐艦籍[124 ] 不知火型駆逐艦[125]のそれぞれから除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦谷風:除籍日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:208928824255 DESCRIPTION: 駆逐艦谷風は8月10日附で不知火型駆逐艦[93] 、 第17駆逐隊[94]、 帝国駆逐艦籍[95][96]より除籍された 。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦早波:除籍日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:178338762657 DESCRIPTION: 1944年8月10日附けで夕雲型駆逐艦籍、帝国駆 逐艦籍から除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦水無月:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:165730989001 DESCRIPTION: 1944年8月10日、「水無月」は卯月型駆逐艦[246 ]、 第22駆逐隊[247]、 帝国駆逐艦籍[248]のそれぞれより 除籍。 8月20日、第22駆逐隊は解隊され、残存2隻(皐月 、夕凪)は第30駆逐隊に編入された[249]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦松風:除籍日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:203537671944 DESCRIPTION: 1944年8月10日、「松風」は神風型駆逐艦[42]、 第30駆逐隊[43]、帝国駆逐艦籍[44]のそれぞれより除籍さ れた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦槇:竣工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:247864730599 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造され、1944年2月19日起工 、6月10日進水、8月10日に竣工[2]。訓練部隊の第十一水 雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。 瀬戸内海に回航され訓練に従事する。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦桜:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:178363999774 DESCRIPTION: 1945年8月10日、帝国駆逐艦籍、松型駆逐艦籍 から除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦橘:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:116631367998 DESCRIPTION: 1945年8月10日、帝国駆逐艦籍および橘型駆逐 艦籍より除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦沼風:起工日(1921) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:292598430165 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1921年8月10日起工、1922 年2月25日進水。同年7月24日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。1922年(大正11年)12 月28日より同型艦「野風」「波風」、神風型駆逐艦 (2代 )「第一駆逐艦」(「神風」)と第1駆逐隊を編成し、千 島、北海道方面の交通保護に当った。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦吹雪:竣工日(1928) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:905506594268 DESCRIPTION: 第35号駆逐艦の艦名は、既に浦風型駆逐艦浦 風で使われていた[6]。 吹雪は舞鶴工作部で1926年(大正 15年)6月19日に起工[7]。6月25日、浦賀船渠で建造の駆逐 艦に第三十三号駆逐艦(望月)[8]、本艦に「第三十五号駆 逐艦」、佐世保海軍工廠の駆逐艦に第四十号駆逐艦(東 雲)の艦名が与えられる[9]。同日附で「第33号駆逐艦、 第35号駆逐艦、第40号駆逐艦」は一等駆逐艦に類別[10]。 \n 「第35号駆逐艦」は1927年(昭和2年)11月15日に進水 、1928年(昭和3年)8月1日、「吹雪」と改称された[1]。 改名から間もない8月10日に竣工[7]。 吹雪型初期姉妹艦 (吹雪、白雪、初雪、深雪)と共に第11駆逐隊を編制し ていた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦春雨:除籍日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:462647404293 DESCRIPTION: 1944年8月10日、春雨と白露の2隻は白露型駆逐 艦[155]、 第27駆逐隊[156]、 帝国駆逐艦籍[157]より除籍さ れた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦白露:除籍日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250809T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250810T150000Z UID:156645915454 DESCRIPTION: 1944年8月10日、「白露」と「春雨」は白露型 駆逐艦[70]、 第27駆逐隊[71]、 帝国駆逐艦籍[72]より除籍 された。 なお「白露」「春雨」除籍から間もなく、「 五月雨」は8月18日にパラオ近海で座礁、26日に米潜水艦 の雷撃を受けて大破・放棄された。10月10日附で除籍[73] 、「時雨」1隻のみとなった第27駆逐隊も解隊された[74] 。10隻が建造された白露型駆逐艦はこの時点で「時雨」 1隻となっていた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦東雲:起工日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250811T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250812T150000Z UID:269128741500 DESCRIPTION: 1926年(大正15年)6月25日、浦賀船渠で建造 の駆逐艦に「第三十三号駆逐艦(望月)」[5]、舞鶴工 廠の駆逐艦に「第三十五号駆逐艦(吹雪)」、佐世保 海軍工廠の駆逐艦に「第四十号駆逐艦(東雲)」の艦 名が与えらる[6]。同日附で「第33号駆逐艦、第35号駆逐 艦、第40号駆逐艦」は一等駆逐艦に類別[7]。8月12日、「 第40号駆逐艦(東雲)」は佐世保工廠で起工[8]。1927年 (昭和2年)11月26日に進水、1928年(昭和3年)7月25日に 「第40号駆逐艦」として竣工[8]。同年8月1日附で「第40 号駆逐艦」は「東雲」と改名される[1]。\n 竣工後、雲 級四隻の第12駆逐隊(叢雲、東雲、薄雲、白雲)に編入 。同年12月1日、同駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊に 編入された。1931年(昭和6年)、「東雲」は第12駆逐隊 から除籍され、「東雲、吹雪、磯波」の吹雪型3隻であ らたに第20駆逐隊を編制した。\n LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦大波:進水日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250812T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250813T150000Z UID:266908953280 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第122号艦として藤 永田造船所で建造。1941年11月15日起工。1942年(昭和17年 )6月20日、本艦に『大波』、夕雲型8番艦に『清波』の 艦名が与えられた[1]。同日附で2隻(大波、清波)は夕 雲型駆逐艦に類別された[5]。 8月13日進水。11月15日附で 平山敏夫少佐は大波艤装員長ならびに吹雪型駆逐艦白 雲艦長に任命される[6]。 12月20日附で平山艤装員長は免 職[7]。後任として吉川潔中佐(夕立沈没時駆逐艦長) が本艦艤装員長に任命された[8]。 \n 本艦は12月29日に 竣工(初月と同日)[9][10]。舞鶴鎮守府籍となる[11]。同 日附で3隻(涼月、初月、大波)は警備駆逐艦に定めら れた[11][12]。本艦は呉鎮守府直率部隊に編入される[13] 。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦樫:進水日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250812T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250813T150000Z UID:934806221084 DESCRIPTION: 藤永田造船所で建造された。1944年5月5日起 工、8月13日進水、9月30日竣工した。就役後、訓練部隊 の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編 入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦桐:竣工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250813T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z UID:191419330311 DESCRIPTION: 丁型一等駆逐艦第5486号艦として横須賀海軍 工廠で建造され、1944年2月1日起工、5月27日進水、8月14 日に竣工した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦槇:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250813T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z UID:306346921810 DESCRIPTION: 1945年12月1日に特別輸送艦に指定され、復員 輸送に従事。1947年(昭和22年)8月14日[51]、賠償艦とし てシンガポールでイギリスに引渡された。その後、「 槇」は解体された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦楡(にれ):起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250813T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z UID:316360789600 DESCRIPTION: 仮称4809号艦、橘型(改松型)駆逐艦2番艦と して舞鶴海軍工廠で建造された。1944年8月14日起工、11 月25日進水。1945年1月31日に竣工した。竣工後、訓練部 隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に 編入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。4月25日付 で第三十一戦隊(鶴岡信道少将・海兵43期)第五十二駆 逐隊に編入された[2]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦涼月:終戦日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:222503648037 DESCRIPTION: 1945年4月7日アメリカ軍機動部隊艦載機の第 一波、第二波攻撃により「涼月」は被弾により艦首が 沈下(前方傾斜10度)、中央部も海面から甲板まで数十 ㎝という状態で前進すると船体が潜ってしまう状態だ った[140]。海図焼失、コンパス破損の状況ながらも涼月 は日本本土を目指した。4月8日朝、「冬月」は各隊に単 独帰投中の「涼月」の掩護を要請した[160][157]。9時32分 、指宿航空隊機により、佐多岬の262度140海里の地点を 北上しているのが発見される[161]。昼前には1隻の漁船 から「われ貴艦の側方を護衛する」と手旗信号をおく られ、涼月乗組員一同を苦笑させた[162]。14時30分、つ いに佐世保に帰投する[163][157]。\n 本艦の修理に必要 な期間は約3ヶ月と算出された[169]。5月5日完成を目標に 、停泊に差し支えない程度のものが行われ[170]、次いで 本修理の施工に関しては昭和20年度中には実施しない事 が決まった[170]。6月10日に佐世保を出発、後部砲塔二基 のみ砲側照準で射撃可能な状態となって相浦に係留さ れた[172]。岸まで板桟橋を渡し、機関に火は入れず陸上 より給電を行った[173]。当時の乗組員は約100名ほどで、 農耕隊と漁撈隊を編制すると、開墾や、貰い受けた漁 船を活用して食糧調達を行う[177]。その間の7月と8月に 対空戦闘を行い、うち8月の対空戦闘でP-51「ムスタング 」1機を高射砲で撃墜した[177]。\n LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦冬月:終戦日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:159123939022 DESCRIPTION: 1945年(昭和20年)4月6日、第二水雷戦隊(司 令官古村啓蔵少将:軽巡矢矧、第17駆逐隊《磯風、雪風 、浜風》、第21駆逐隊《朝霜、初霜、霞》、第41駆逐隊 《冬月、涼月》)は菊水作戦にともなう第二艦隊(司 令長官伊藤整一中将:旗艦大和)の海上特攻作戦(坊 ノ岬沖海戦)に参加し、徳山沖を出撃[84]。4月8日朝、 「冬月」は各隊に単独帰投中の「涼月」の掩護を要請 した[114]。3隻(初霜、雪風、冬月)は同日午前中に佐 世保に帰投した[115]。\n 8月15日、終戦の日に第17駆逐 隊は解隊され、同隊所属だった不知火型駆逐艦「雪風 」が第41駆逐隊に編入された[126]。「冬月」は玉音放送 を門司港で迎えた[127]。8月20日、呉へ移動を命じられ、 門司を出港する[128]。曳船で埠頭から離れたたところ、 直後に触雷して5名が戦死、負傷者多数[128]。後部兵員 室より後方を亡失し、航行不能となった[129][130]。 9月20 日付で第四予備艦となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦澤風:終戦日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:212539271410 DESCRIPTION: 1944年(昭和19年)1月14日、横須賀を出港し 東京湾口で船団護衛を実施。2月から尾鷲を基地として 紀伊半島方面での対潜掃討、船団護衛に従事。12月18日 、横須賀港に戻り、海軍対潜学校練習艦となった。\n  1945年(昭和20年)2月4日、 横浜に入港し、3月18日まで 対潜実験艦への改造工事を実施。5月5日、第1特攻戦隊 の特攻攻撃訓練目標艦となり、横須賀において無傷で 終戦を迎えた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦矢風:起工日(1918) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:195164586711 DESCRIPTION: 峯風型駆逐艦として1918年8月15日起工、1920年 4月10日進水。1920年(大正9年)7月19日三菱長崎造船所で 竣工。横須賀鎮守府籍。1931年(昭和6年)に所属の第2 駆逐隊は第一航空戦隊(鳳翔、加賀)に編入され、翌 年の第一次上海事変に参加する。\n 1937年(昭和12年) 以降は駆逐艦籍のまま兵装の一部を撤去し「摂津」の 無線操縦艦として用いられた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦矢風:終戦日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:194634932342 DESCRIPTION: 1944年2月7日、トラック発の船団を護衛して 内地へ向かい、2月27日に呉に入港した[15]。その後は北 海道方面など内地で爆撃訓練に従事した[15]。\n 1945年 (昭和20年)7月18日 横須賀港小海に係留中に敵艦載機 の攻撃を受ける(横須賀空襲)。隣の艦が直撃弾を受 けた際に爆風や破片により損傷し、すぐに修理された がそのまま終戦を迎えた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦汐風:終戦日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:752871119944 DESCRIPTION: 太平洋戦争では、南方で海上護衛、上陸作 戦支援に参加。大戦末期、損傷修理を切っ掛けに、波 風と同様回天搭載艦へ改造された。\n終戦を呉港で迎え た。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦波風:終戦日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:319579157084 DESCRIPTION: 1944年(昭和19年)9月18日、択捉島南方で米 潜水艦「シール」の雷撃を受け大破。「神風」に曳航 され小樽で応急修理を実施後、舞鶴工廠で修理を行う と同時に、回天搭載艦への改造工事を1945年(昭和20年 )2月1日まで行った。同年6月19日から宇部沖で「B-29」 投下の機雷監視に従事。終戦を呉港で迎えた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦深雪:除籍日(1934) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:122842034548 DESCRIPTION: 1934年7月5日、第11駆逐隊より除かれ、同隊は 吹雪型2隻(白雪、初雪)となる[82]。 7月22日、事務所 撤去[83]。 同年8月15日に除籍された[84][85]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦雷:竣工日(1932) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250814T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z UID:243788573426 DESCRIPTION: 「雷」は、浦賀船渠で1930年(昭和5年)3月7 日起工される。1931年(昭和6年)10月22日進水。1932年( 昭和7年)8月15日竣工する。1941年(昭和16年)2月から10 月に石川島造船所で行われた特定修理では九三式探信 儀と九一式方位盤を装備[3]。その他、二番煙突後方に2 基装備されていた13ミリ連装機銃[4]の九六式二十五粍高 角機銃への換装も計画されたが、供給問題により換装 は実施されなかった[3]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夕風:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250815T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250816T150000Z UID:313899112693 DESCRIPTION: 特別保管艦(賠償艦)に指定され、1947年( 昭和22年)7月、イギリスへ引き渡しとなる10隻が佐世保 に集結される。食糧運搬艦「早埼」(「荒埼」という 資料もある)を旗艦とし、26日にシンガポールへ向けて 出航した。回航艦は駆逐艦、海防艦、駆潜艇等が含ま れていたが、戦時急造艦も多く、故障や漂泊が多発し たという。 夕風は故障もなく、単艦先行して他艦より 一日早い、8月15日(8月14日という資料もある)にシン ガポールのセレター軍港に到着した。\n この時の艦長 田口康生氏(「雪風」航海長や砲術長等)の回想によ ると、そこでは在シンガポールのインド人が百数十人 も集まり、「インド独立の記念と御礼に」と、日本の 愛唱歌「愛国行進曲」を日本語で合唱する歓迎を受け たという。 翌16日には他艦も到着、引渡し作業を行っ た。その後、まだ現地に残っていた南西方面艦隊司令 部に挨拶・報告をすませ、回航員は「早埼」にて帰国 の途に就いた。その後夕風は現地で解体され、26年の艦 歴を閉じた。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦清波:進水日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250816T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250817T150000Z UID:188539906507 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第123号艦として浦 賀船渠で建造。1941年11月15日起工。1942年(昭和17年)6 月20日、夕雲型7番艦に『大波』、本艦に『清波』の艦 名が与えられる[3]。同日附で2隻(大波、清波)は夕雲 型駆逐艦に類別された[6]。 8月17日、進水[1]。 同年12月1 日附で陽炎型駆逐艦17番艦「萩風」駆逐艦長畑野健二少 佐は、本艦艤装員長に任命される[7]。12月3日、浦賀船 渠に艤装員事務所を設置[8]。 \n 本艦は1943年(昭和18 年)1月25日に竣工[11][2]。艤装員事務所を撤去[12]。正式 に舞鶴鎮守府籍となり、警備駆逐艦に指定となる[13][14] 。そのまま横須賀鎮守府部隊に編入された[15]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦沖風:竣工日(1920) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250816T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250817T150000Z UID:699237942369 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1919年2月22日起工、1919 年10月3日に進水。1920年8月17日に竣工した。一等駆逐艦 に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦巻波:竣工日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250817T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250818T150000Z UID:158467512356 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第120号艦として舞 鶴海軍工廠で建造。 1941年(昭和16年)4月11日起工。同 年10月25日、三菱重工長崎造船所で建造の秋月型駆逐艦 に「照月」、舞鶴海軍工廠の夕雲型駆逐艦に「巻波」 の艦名が与えられる[1]。同日附で2隻は秋月型・夕雲型 に類別された[4]。 12月27日、「巻波」は進水[5][7]。同日 附で舞鶴鎮守府籍となる[8]。\n 7月15日、「巻波」は予 行運転中に機関故障を起こし、竣工予定を延期した[12] 。 8月18日、竣工[11][25]。艤装員事務所を撤去[26]。同日 附で人見艤装員長は巻波駆逐艦長(初代)となる[27]。 「巻波」は警備駆逐艦に指定された[28][29]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦太刀風:起工日(1920) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250817T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250818T150000Z UID:240119766221 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1920年8月18日起工、1921 年3月31日進水。同年12月5日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦岸波:進水日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250818T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250819T150000Z UID:280530910136 DESCRIPTION: 1942年度(マル急計画)仮称第343号艦として 浦賀船渠で建造。1942年8月29日起工、1943年8月19日進水。 1943年(昭和18年)12月3日に竣工して一等駆逐艦に類別 され、舞鶴鎮守府籍となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦柿:処分日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250818T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250819T150000Z UID:264689809544 DESCRIPTION: 1945年12月1日特別輸送艦に指定され、復員輸 送に従事。1946年(昭和21年)12月15日、特別保管艦に指 定[14]。1947年(昭和22年)7月4日、特別輸送艦の定めを 解かれ[15]、賠償艦として青島で米国へ引渡され、8月19 日に北緯35度29分 東経123度35分の地点で標的艦として処 分された[16]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦親潮:竣工日(1940) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250819T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250820T150000Z UID:164850777387 DESCRIPTION: 「親潮」は舞鶴海軍工廠で1938年(昭和13年 )3月29日に起工[3]。 1938年(昭和13年)9月20日、日本海 軍(米内光政海軍大臣)は舞鶴海軍工廠で建造の本艦 を『親潮』、藤永田造船所の陽炎型6番艦を『夏潮』、 川崎造船所の陽炎型7番艦を『初風』と命名した[1][4]。 同日附で、各艦(親潮、夏潮、初風、伊号第十八潜水 艦、伊号第二十潜水艦、伊号第二十二潜水艦等)は、 それぞれ艦艇類別等級表に登録[5]。 同年11月29日、舞鶴 海軍工廠で本艦は進水[3][6]。\n 1940年(昭和15年)5月1 日、金国親潮艤装員長は、制式に親潮駆逐艦長(初代 )に任命された[13]。 5月10日、親潮艤装員事務所を撤去 [14]。8月20日に竣工[3]。呉鎮守府所属。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦柳:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250819T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250820T150000Z UID:718846154663 DESCRIPTION: 丁型一等駆逐艦第5497号艦として藤永田造船 所で建造された。1944年8月20日起工、同年11月25日に進水 、1945年1月18日に竣工し、呉鎮守府籍となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦菫:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250819T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250820T150000Z UID:454856855092 DESCRIPTION: 第十一水雷戦隊は瀬戸内海への機雷投下を 避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴 に到着するも、舞鶴鎮守府から「空襲の際に刺激とな る」との理由で、舞鶴以外の場所へ移動するよう要請 を受ける[3]。そこで、6月に入って小浜湾に移動するこ ととなった[4]。7月15日付で特殊警備艦となり舞鶴鎮守 府部隊に編入され[5]、7月23日に舞鶴に戻った後[6]、そ のまま終戦を迎えた。\n 1945年12月1日特別輸送艦に指 定され復員輸送に従事。その後賠償艦として1947年(昭 和22年)8月20日に香港でイギリスへ引渡し、同年シンガ ポール沖で標的として処分された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦山風:除籍日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250819T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250820T150000Z UID:237353447284 DESCRIPTION: 1942年8月20日、駆逐艦「山風」は 帝国駆逐艦 籍[81]、 第24駆逐隊[82] 白露型駆逐艦[83] のそれぞれから 除籍された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦白露:竣工日(1936) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250819T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250820T150000Z UID:319193529028 DESCRIPTION: 「白露」は佐世保工廠で1933年(昭和8年)11 月14日に起工[6]。同年12月15日、初春型駆逐艦「有明、 夕暮」は初春型から除かれ、『一等駆逐艦有明型』が 登録された[7]。同日附で建造中の有明型3隻に対しそれ ぞれ「白露(シラツユ)」、「時雨(シグレ)」「村 雨(ムラサメ)」の艦名が与えられる[1]。\n 1934年( 昭和9年)11月19日、有明型駆逐艦は登録を抹消されて「 有明、夕暮」は初春型に戻り、あらたに白露型駆逐艦 が新設、有明型3番艦だった「白露」は同型の1番艦(ネ ームシップ)となった[7]。1935年(昭和10年)4月5日に進 水[6]。1936年(昭和11年)8月20日に竣工した[6]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦三日月:起工日(1925) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250820T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250821T150000Z UID:208069750775 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1925年(大正14 年)2月16日、佐世保にて建造予定の睦月型駆逐艦は「 第三十二号駆逐艦」と命名される[3]。なお同日附で妙 高型重巡洋艦「足柄」と「羽黒」も命名されている[4] 。同日附で「足柄、羽黒」は一等巡洋艦に、「第32号駆 逐艦」は一等駆逐艦に類別された[5]。 「第32号駆逐艦 」は佐世保海軍工廠で同年8月21日起工、1926年(大正15 年)7月12日進水、1927年(昭和2年)5月5日に竣工[6]。佐 世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日附で「 第32号駆逐艦」は「三日月」と改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝風:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250822T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250823T150000Z UID:134682903132 DESCRIPTION: 1944年(昭和19年)8月22日、神風型2隻(夕凪 、朝風)は海防艦と共にルソン島沖でマタ24A船団の護 衛中[33]、船団中のタンカー第二八紘丸(日本油槽船、1 0\,022トン)がスペードフィッシュ (USS Spadefish\, SS-411) の 雷撃によりバサレン湾に座礁したため、「朝風」はそ の警戒として付き添った。 8月23日午前7時55分[1]、タン カーの二洋丸(浅野物産、10\,022トン)を護衛中の本艦 はルソン島ボリナオ(英語版)沖北緯16度02分 東経119度 43分地点で、米潜水艦ハッド(USS Haddo\, SS-255)に雷撃され る[2]。「朝風」は大破、航行不能となった[1]。機帆船6 隻の曳航でダソル(英語版)湾北緯15度56分 東経119度46 分地点に座礁させたが、22時35分に転覆して沈没した[1] 。砲術長、航海長以下乗員の一部が戦死した。夜半の 沈没のため、喪失日を8月24日とする文献・資料もある[2 ]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夕風:竣工日(1921) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250823T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250824T150000Z UID:250109408774 DESCRIPTION: 三菱長崎造船所で建造。1920年12月14日起工、 1921年5月28日進水。1921年8月24日に竣工した。一等駆逐艦 に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。 同じ峯風型の島 風、太刀風と共に第三駆逐隊を編成し、第二艦隊に所 属。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦藤波:起工日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250824T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250825T150000Z UID:201895028736 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第127号艦として藤 永田造船所で建造、1942年8月25日に起工、1943年(昭和18 年)4月20日に進水、同年7月31日に竣工、一等駆逐艦に 類別され舞鶴鎮守府籍となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦睦月:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250824T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250825T150000Z UID:188986477897 DESCRIPTION: 1942年8月24日、第30駆逐隊司令艦睦月は、駆 逐艦弥生、磯風、陽炎、江風を率いてガダルカナル島 米軍ヘンダーソン飛行場砲撃任務を命じられ、22時より 約10分間の飛行場砲撃に成功した[39][40]。\n 8月25日5時4 0分、駆逐艦5隻は増援部隊第二梯団(輸送船団)と合流 [46]。艦隊はヘンダーソン飛行場から飛来したSBDドーン トレス急降下爆撃機8機の奇襲を受ける。このドーント レスは空母エンタープライズの所属機で、前日の戦闘 で中破したエンタープライズからヘンダーソン基地に 移動していた部隊であった。まず神通の前部甲板に爆 弾1発が命中、火災となった[48]。続いて6時7分、今度は 金龍丸にドーントレスの投下した爆弾が命中、大火災 となった[49]。\n 睦月、哨戒艇1号、2号は炎上した金龍 丸の救援を行い、海風、磯風、江風、哨戒艇34号、35号 がぼすとん丸、大福丸の護衛を続行する[51]。金龍丸は 乗組員を弥生、哨戒艇1号、2号に収容後、睦月に雷撃処 分され8時53分に沈没した[52]。 だが、金龍丸処分直後の 8時27分、睦月はアメリカ陸軍B-17爆撃機3機に攻撃され[53 ]、睦月の後部機械室に爆弾1発が命中、9時40分に沈没し た[54]。 准士官以上3名、下士官兵37名が戦死、負傷者11 名[55]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夕凪:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250824T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250825T150000Z UID:199045824140 DESCRIPTION: 1944年(昭和19年)7月上旬、マリアナ沖海戦 に続くサイパンの戦いで、サイパン島地上戦に巻き込 まれた第三水雷戦隊司令部は全滅、第三水雷戦隊司令 官中川浩少将も戦死した[309]。そこで日本海軍は第三水 雷戦隊の残存艦艇を基幹として、8月20日附で第三十一 戦隊 を編制する[310][311][312]。8月上旬、「夕凪」はヒ71 船団に加入[315][316]。\n 8月22日、神風型2隻(夕凪、朝 風)は海防艦と共にルソン島沖でマタ24A船団の護衛中[3 21]、船団中のタンカー第二八紘丸(日本油槽船、10\,022 トン)がスペードフィッシュ (USS Spadefish\, SS-411) の雷撃 によりバサレン湾に座礁したため、その警戒として付 き添った。 8月23日、姉妹艦「朝風」は米潜水艦ハッド( USS Haddo\, SS-255)に雷撃され[5]、近くの陸地に曳航された あと、沈没した[322]。 8月25日、バサレン湾を警戒中、 付近を通りかかったマタ26A船団[323]がアメリカ軍の潜水 艦ピクーダ(USS Picuda\, SS-382)の雷撃を受ける様子を目 撃し、現場へ対潜掃討に向かう[324]。だがピクーダが発 射した魚雷が艦橋後部(左舷)に命中し、衝撃で缶室 が爆発[324]。船体は両断され、「夕凪」は沈没した[324] 。乗員約40名が戦死、さらに僚艦の爆雷攻撃の影響で救 助された重傷者多数が戦死した[324]。沈没地点記録北緯 18度42分 東経120度49分[323]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦宵月:起工日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250824T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250825T150000Z UID:154709002906 DESCRIPTION: 1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)に よる乙型一等駆逐艦の第363号艦として、浦賀船渠で1943 年(昭和18年)8月25日に起工[7]。当初は三菱長崎造船所 で建造される予定であったが、線表改訂により浦賀で の建造に変更された[8]。本艦は、秋月型駆逐艦のうち 浦賀船渠で建造された唯一の艦である。\n1944年(昭和19 年)5月10日、姉妹艦「春月」や海防艦等と共に命名[3] 。 9月25日に進水[7]。\n 1945年(昭和20年)1月31日に竣 工[8][7]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夏月:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250824T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250825T150000Z UID:185316355666 DESCRIPTION: 1945年5月20日付で第三十一戦隊(鶴岡信道少 将・海兵43期)、軽巡洋艦「北上」、駆逐艦「波風」と ともに海上挺進部隊を編成し[12]、次いで5月25日付で第 四十一駆逐隊に編入される[13]。この間の5月3日には第 十一水雷戦隊の臨時旗艦を務めた[14]。 6月16日、六連島 灯台[4]の193度3\,100メートル地点で触雷し小破[6]。佐世 保に曳航の上、佐世保海軍工廠で7月1日から25日の間修 理を行った[6]。終戦を門司で迎えた。本艦が秋月型の 中で完成が最後で終戦まで4ヵ月ほどであり、大規模な 戦闘には参加出来なかった。\n 横須賀で特別保管艦と して係留の後[6]、1947年(昭和22年)8月25日[6]に浦賀で 賠償艦としてイギリスに引き渡されるが、直ちに浦賀 船渠に売却された。「夏月」は同年9月3日に特別輸送艦 の指定を解かれた[15]。9月10日から解体が開始され、翌 年3月1日に完了した[6][16]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦杉:竣工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250824T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250825T150000Z UID:142341311356 DESCRIPTION: 藤永田造船所で建造された。1944年2月1日起 工、7月3日進水、8月25日に竣工した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦五月雨:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250825T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250826T150000Z UID:554715011486 DESCRIPTION: 1944年8月26日18時30分、米潜水艦「バットフィ ッシュ」 (USS Batfish\, SS/AGSS-310)の雷撃が「五月雨」右舷 中部に命中、大破した船体は断裂する[70]。これをもっ て「五月雨」は放棄された LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦春雨:竣工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250825T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250826T150000Z UID:349741025203 DESCRIPTION: 舞鶴工廠で1935年(昭和10年)2月3日に起工[4] 。同年9月21日に進水した[4]。1937年(昭和12年)8月26日 に就役した[4]。 竣工当初はウェスティングハウス社製 の溶接構造の減速機室と減速歯車を備えていたが、試 運転の際に減速歯車に亀裂が発見されたため、姉妹艦 と同型の鋳鋼製の減速機に交換された[5]。 姉妹艦に比 べ就役が大幅に遅れていたのは、この減速機交換作業 のためである。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦弥生:竣工日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250827T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250828T150000Z UID:673348599189 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。同年7月19日、 浦賀造船所で建造予定の駆逐艦に「第二十三駆逐艦」 の艦名が与えられる[6]。一等駆逐艦に類別[7]。\n 1924 年(大正13年)1月11日起工、4月24日艦名を「第二十三号 駆逐艦」に改正[8]、1925年(大正14年)7月11日進水、1926 年(大正15年)8月28日に竣工[9]。佐世保鎮守府に所属し た。1928年(昭和3年)8月1日附で「第二十三号駆逐艦」 は「彌生(弥生)」と改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦春月:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250827T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250828T150000Z UID:169601236510 DESCRIPTION: 1945年3月6日に呉を出撃[17]。同日付で第一〇 三戦隊は鎮海警備府護衛部隊に編入された[17]。3月8日 に鎮海に到着し[18]、合流してきた海防艦隠岐、第19号 駆潜艇を率いて3月15日に荷衣島に進出[19]。対潜作戦と 海上交通保護作戦の指揮を執った[20]。7月1日に佐世保 に帰投し[21][7]、8月15日の終戦を呉で迎えた[22]。10月5日 除籍[7]。\n その後は復員輸送艦となる。横須賀で特別 保管艦として係留[22]。長浦港にて、陽炎型駆逐艦8番艦 「雪風」と並んで繋留された写真も残る[23]。1947年(昭 和22年)8月25日に佐世保を出港してナホトカに向かい、 8月28日に到着後、ソ連に賠償艦として引き渡された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝霧:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250827T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250828T150000Z UID:234667004260 DESCRIPTION: 太平洋戦争では、南方進攻、ミッドウェー 海戦、ソロモン諸島の諸作戦に参加。1942年(昭和17年 )8月28日、ガダルカナル島輸送作戦に従事中、サンタ イサベル島北方で米海兵隊機の爆撃を受け戦没した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦岸波:起工日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250828T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250829T150000Z UID:324882862070 DESCRIPTION: 1942年度(マル急計画)仮称第343号艦として 浦賀船渠で建造。1942年8月29日起工、1943年8月19日進水。 1943年(昭和18年)12月3日に竣工して一等駆逐艦に類別 され、舞鶴鎮守府籍となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦宵月:引渡日(1947) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250828T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250829T150000Z UID:120222511792 DESCRIPTION: 8月2日、本土決戦に備えて兵力を温存するた め、曳航されて東能美島南端の秀地の窪入江島岸に錨 泊[39]。藁縄の網で全艦を覆い、青松葉で擬装を行った[ 39]。単装機銃は陸揚げされ、丘に機銃座を作り潜伏さ せている[40][39]。8月6日の広島原爆投下時における「宵 月」は擬装中であり、所在の露呈を防ぐために発砲は 行わなかった[39]。本艦繋留地点からも、原爆炸裂の閃 光と爆発音およびキノコ雲が見えたという[40][39]。 8月1 5日に終戦を迎えたが、同日附で第41駆逐隊に陽炎型駆 逐艦8番艦「雪風」が編入され[42]、4隻編制となった( 冬月、宵月、夏月、雪風)。12月1日に特別輸送艦に指 定された[44]。復員輸送後は横須賀で特別保管艦として 係留され[41]、1947年(昭和22年)8月29日に特別輸送艦の 指定を解かれた[45]。本艦の残務整理は12月5日に終了し た[46]。\n 戦時賠償艦としての中華民国への引渡しは 、1947年(昭和22年)8月25日に佐世保港を出港し、29日に 青島に到着して引き渡される[47]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦不知火:起工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250829T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250830T150000Z UID:600911093201 DESCRIPTION: 不知火は浦賀船渠で1937年8月30日に起工、1938 年6月28日に進水。1939年12月20日に竣工した。呉鎮守府在 籍。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦旗風:竣工日(1924) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250829T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250830T150000Z UID:321372553055 DESCRIPTION: 本艦は1923年(大正12年)7月3日に起工[14][21] 。1924年(大正13年)3月15日、「第九駆逐艦」として進 水[14][22]。 艤装中の4月24日附で「第九駆逐艦」は「第 九号駆逐艦」と改称[8]。 6月10日、日本海軍は荒糺(あ らただし)少佐(当時山風駆逐艦長心得)を第9号駆逐 艦艤装員長に任命(後任の山風艦長心得は中圓尾義三 少佐)[23]。6月19日より艤装員事務所での事務を開始す る[24]。8月30日に竣工した[14][27]。 \n 4年後の1928年(昭 和3年)8月1日附で、「第九号駆逐艦」は「旗風」と改 名された[1][29]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝潮:竣工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250830T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250831T150000Z UID:271094367587 DESCRIPTION:  1935年(昭和10年)9月6日、建造予定の駆逐 艦2隻にそれぞれ『朝潮』と『大潮』の艦名が与えられ た[1][5]。同日附で艦艇類別等級表に朝潮型駆逐艦を新 設[6]。 本艦は佐世保海軍工廠で9月7日に起工[7][8]。 1936 年(昭和11年)12月16日に進水した[7]。日本海軍は、吹 雪型駆逐艦潮・峯風型沖風艦長等を歴任した成田茂一 中佐を朝潮艤装員長に任命する[9]。当事の佐世保工廠 では、白露型4番艦夕立の建造が最終段階に入っていた (翌年1月7日竣工)[10]。12月28日、佐世保海軍工廠に朝 潮艤装員事務所を設置[11]。\n 1937年(昭和12年)8月2日 、成田艤装員長は正式に朝潮駆逐艦長(初代)に任命 される[12]。本艦は8月31日に竣工した[7]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦黒潮:起工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250830T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250831T150000Z UID:182288707674 DESCRIPTION: 陽炎型駆逐艦3番艦「黒潮」は仮称19号艦と して藤永田造船所で1937年(昭和12年)8月31日に起工[3] 。\n 1938年(昭和13年)4月15日、日本海軍は舞鶴海軍工 廠で建造中の駆逐艦を『陽炎』、浦賀船渠の同型駆逐 艦を『不知火』、藤永田造船所の本艦を『黒潮』、東 京石川島造船所の測天型敷設艇2番艇を「白神」と命名 する[5][1]。同日附で艦艇類別等級表に『陽炎型駆逐艦 』が新設され、3隻(陽炎、不知火、黒潮)は同型に類 別された[6]。 同年10月25日、「黒潮」は進水[3][7]。\n 1 940年(昭和15年)1月20日、佐世保海軍工廠で陽炎型8番 艦「雪風」が竣工[12]、呉へ回航される[13]。 「雪風」 竣工から一週間遅れた1月27日、陽炎型3番艦「黒潮」は 竣工[3][14]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夏潮:竣工日(1940) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250830T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250831T150000Z UID:327465693597 DESCRIPTION: 駆逐艦「夏潮」は藤永田造船所で1937年(昭 和12年)12月9日に起工[4]。 1938年(昭和13年)9月20日、 日本海軍(米内光政海軍大臣)は舞鶴海軍工廠で建造 の陽炎型4番艦を『親潮』、藤永田造船所の陽炎型6番艦 (本艦)を『夏潮』、川崎造船所の陽炎型7番艦を『初 風』と命名した[2][5]。 同日附で、各艦(親潮、夏潮、 初風、伊号第十八潜水艦、伊号第二十潜水艦、伊号第 二十二潜水艦等)は、それぞれ艦艇類別等級表に登録[6 ]。\n 「夏潮」は1939年(昭和14年)2月23日に進水[4]。 本艦の建造は陽炎型3番艦「黒潮」と同時に進められた[ 7]。1940年(昭和15年)1月27日、藤永田造船所で姉妹艦「 黒潮」が竣工[10]。 同年8月31日[4][1]に竣工。陽炎型5番 艦「早潮」と同日附の竣工であった[16]。呉鎮守府籍。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦高波:竣工日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250830T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250831T150000Z UID:239484969067 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第121号艦として浦 賀船渠で建造[3]。1941年(昭和16年)5月29日起工。1942年 (昭和17年) 3月16日午後4時30分[7]、横須賀鎮守府長官 平田昇中将立ち合いの元で本艦は進水[8][3]。同日、第 五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)と随伴艦(秋雲、霰、陽炎 )も横須賀に入港している[3]。 \n 1942年8月31日に竣工 [13][14]。同日、秋月型駆逐艦2番艦「照月」(佐世保鎮 守府籍)も8月31日竣工しており、本艦は舞鶴鎮守府籍 となる[17]。その上で、2隻(照月、高波)は警備駆逐艦 に指定された[17]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦照月:竣工日(1941) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250830T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250831T150000Z UID:132387044136 DESCRIPTION: 1939年(昭和14年)度(マル4計画)の第105号 艦[4]。1940年(昭和15年)11月13日、三菱重工業長崎造船 所で起工[4]。1941年(昭和16年)10月25日に命名[2]、同日 附で一等駆逐艦秋月型に類別される[5]。「照月」は真 珠湾攻撃直前の11月21日に進水[4]。本艦は8月31日に竣工 して佐世保鎮守府籍となる[12][4][13]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦涼風:竣工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250830T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250831T150000Z UID:289886506655 DESCRIPTION: 1935年(昭和10年)6月20日、日本海軍は浦賀 船渠で建造予定の駆逐艦を「涼風」と命名した[2][4]。 同年7月9日、「涼風」は浦賀船渠で起工[6][7]。 本艦は19 37年(昭和12年)3月11日に進水[6][12]。\n 5月1日、日本 海軍は井上良雄少佐(吹雪型駆逐艦「響」艦長)を涼 風艤装員長に任命する(後任の響艦長は駆逐艦雷艦長 竹内虎四郎少佐)[13]。5月3日、浦賀船渠に涼風艤装員 事務所を設置し、事務を開始する[14]。 「涼風」は同年 8月31日に竣工した[6]。主要幹部は、井上良雄少佐(駆 逐艦長)、浅井秋生大尉(砲術長)、藤田淳大尉(水 雷長)、西村定男大尉(航海長)、斎藤孝吉機関大尉 (機関長)[15]。同日附で艤装員事務所を撤去する[16]。 \n 竣工と同時の8月31日附で姉妹艦3隻(海風、山風、 江風)の第24駆逐隊(5月31日附で編制。駆逐隊司令久宗 米次郎大佐)に編入[17][18]。定数4隻(海風、山風、江 風、涼風)を揃えた第24駆逐隊は第二次上海事変(昭和 12年)に投入され、中国大陸に進出した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦梨:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250831T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250901T150000Z UID:338094229957 DESCRIPTION: 駆逐艦「梨」は橘型の10番艦(仮称4810号艦 )として、川崎重工業神戸艦船工場で1944年(昭和19年 )9月1日に起工。同年12月8日、駆逐艦(柿、樺、梨、椎 、榎)や海防艦「志賀」等に艦名が与えられる[2]。同 日附で各艦(柿、樺、梨、椎、榎)は松型駆逐艦に類 別[1]。\n 1945年(昭和20年)1月17日、進水。2月9日、神 戸川崎造船所内に設置された梨艤装員事務所は、事務 を開始[3]。 本艦は同年3月15日に竣工した[11]。呉鎮守府 籍[12]。\n 竣工(3月15日)をもって第十一水雷戦隊( 司令官高間完少将。旗艦「酒匂」)に配属され、山口 県柳井市東方及び南方の瀬戸内海において訓練に従事 した。燃料事情が悪化しているため、訓練航海は月に 数回しか行われず、それも殆どは呉より日帰りの短期 のものであった[15]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦雄竹:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20250831T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20250901T150000Z UID:122962133660 DESCRIPTION: 仮称4814号艦、橘型(改松型)駆逐艦として 舞鶴海軍工廠で建造された。1944年11月5日起工、1945年3 月10日進水。5月15日に竣工した。竣工後、訓練部隊の第 十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入す るも、タービンの空気漏洩が見つかり、5月17日まで調 整が行われた[2]。舞鶴湾で単独訓練を行い[3]、待機す る。 LOCATION: END:VEVENT END:VCALENDAR