BEGIN:VCALENDAR VERSION:2.0 PRODID:-//chikkutakku.com//RDFCal 1.0//EN X-WR-CALDESC:GoogleカレンダーやiCalendar形式情報を共有シェ アしましょう。近所のイベントから全国のイベントま で今日のイベント検索やスケジュールを決めるならち っくたっく X-WR-CALNAME:ちっくたっく X-WR-TIMEZONE:UTC BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦望月:進水日(1927) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240427T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240428T150000Z UID:145733667909 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1925年(大正15 年)6月25日、浦賀船渠で建造予定の駆逐艦に「第三十 三号駆逐艦」の艦名が与えられた[3]。なお同日附で「 第35号駆逐艦(吹雪)」、「第40号駆逐艦(東雲)」も命名さ れている[4]。3隻とも一等駆逐艦に類別[5]。「第33号駆 逐艦」は1926年3月23日に起工、1927年(昭和2年)4月28日 に進水。10月31日に竣工、佐世保鎮守府に所属した。1928 年(昭和3年)8月1日に「第33号駆逐艦」は「望月」と改 名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦松:竣工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240427T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240428T150000Z UID:105932103003 DESCRIPTION: 丁型一等駆逐艦第5481号艦として舞鶴工廠で 建造[3]。1943年(昭和18年)8月8日、起工[3][4]。同年12月2 2日、命名[1]。同日附で駆逐艦一等の部中に松型が新設 され、その1番艦に定められる[2]。 1944年(昭和19年)2 月3日に進水し[8]、本籍を舞鶴鎮守府に定められる[9]。\ n 4月28日、竣工[11][16]。訓練部隊の第十一水雷戦隊( 司令官高間完少将・海軍兵学校41期[17])に編入され、5 月1日に舞鶴を出港して呉に回航された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦浦波:起工日(1927) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240427T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240428T150000Z UID:183843220364 DESCRIPTION: 本艦は浦賀船渠で建造。計画当初の艦名は 「第44号駆逐艦」。一等駆逐艦に類別された。1927年4月2 8日に起工、翌年1928年11月29日進水。1928年(昭和3年)12 月1日、「磯波」「敷波」「綾波」と第19駆逐隊(第2艦 隊第2水雷戦隊)を編成した。1929年6月30日に竣工した。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦浜波:起工日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240427T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240428T150000Z UID:167394174699 DESCRIPTION: 1942年度(マル急計画)仮称第341号艦として 舞鶴海軍工廠で建造。1942年4月28日に起工、1943年4月18日 進水、1943年(昭和18年)10月15日に竣工して一等駆逐艦 に類別され、舞鶴鎮守府籍となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦江風:竣工日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240429T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240430T150000Z UID:118423324701 DESCRIPTION: 本艦は藤永田造船所で1935年(昭和10年)4月2 5日に起工[11]。 1936年(昭和11年)11月1日に進水した[11][ 12]。12月1日、日本海軍は初春型駆逐艦4番艦「初霜」駆 逐艦長山田雄二中佐を江風艤装員長に任命した[13]。 12 月7日、藤永田造船所に江風艤装員事務所を、神戸川崎 造船所に熊野艤装員事務所を設置する[14]。 1937年(昭 和12年)4月30日、「江風」は竣工した[11]。山田江風艤 装員長も制式に江風駆逐艦長(初代)となる[15]。佐世 保鎮守府籍。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦深雪:起工日(1927) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240429T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240430T150000Z UID:311186874959 DESCRIPTION: 1927年(昭和2年)4月26日、日本海軍は建造予 定の駆逐艦4隻を、それぞれ第三十六号駆逐艦(横浜船 渠。後の白雪)、第三十八号駆逐艦(後の深雪)、第 三十九号駆逐艦(藤永田造船所。後の叢雲)、第四十 四号駆逐艦(佐世保海軍工廠。後の浦波)と命名する[7 ][8][9]。 第38号駆逐艦は、同年4月30日に浦賀船渠で起工[ 10][11][12]。同造船所では、既に第43号駆逐艦(磯波)の 建造が進んでいた[13]。 \n 1928年(昭和3年)6月26日午 前11時30分、第38号駆逐艦は無事進水[14][15]。その4日後 、第43号駆逐艦(磯波)は竣工して浦賀を離れた[13]。 8 月1日附で第38号駆逐艦は深雪と改称[1][10]。 12月10日、 日本海軍は睦月型駆逐艦2番艦「如月」駆逐艦長加藤仁 太郎中佐を、深雪艤装員長に任命する[16]。\n 1929年( 昭和4年)2月12日午後、東京湾で試運転中に伊号第24号 潜水艦と衝突、スクリューに損傷を受けて4月30日の竣 工予定を延期した[17][18]。 6月29日に竣工[12][19]。艤装員 事務所を撤去[20]。加藤艤装員長も、正式に深雪駆逐艦 長(初代)となる[21]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦綾波:竣工日(1930) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240429T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240430T150000Z UID:102824821781 DESCRIPTION: 大阪の藤永田造船所で1928年(昭和3年)1月20 日に起工[2]。同年8月1日附で第四十五号駆逐艦から駆逐 艦「綾波」となる[1]。1929年(昭和4年)10月5日進水、193 0年(昭和5年)4月30日に竣工した[2]。第四艦隊事件など の教訓から主砲の換装等重心低下の為の改装を経て、 日中戦争では上海や杭州における上陸作戦を支援、1940 年にも上陸作戦の支援に参加している。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦峯雲:竣工日(1938) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240429T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240430T150000Z UID:115940296073 DESCRIPTION: 1936年(昭和11年)12月14日、日本海軍は建造 予定の水上機母艦2隻・駆逐艦2隻に、水上機母艦「千代 田」と「瑞穂」、朝潮型駆逐艦「峯雲」と「霰」の艦 名を与えた[1]。 藤永田造船所で建造された朝潮型は、 本艦のほかに3番艦「満潮」[5]、6番艦「山雲」[6]の計3 隻である。 駆逐艦「峯雲」は1937年(昭和12年)3月22日 に起工、同年11月4日に進水[7][8]。翌日には神戸川崎造 船所で姉妹艦「朝雲」も進水した[8]。\n 1938年(昭和13 年)1月20日、朝潮型2番艦「大潮」駆逐艦長山代勝守中 佐は峯雲艤装員長を命じられる[9]。 1月27日、藤永田造 船所に峯雲艤装員事務所を設置[10]。本艦は4月30日に竣 工[7]。峯雲艤装員事務所は撤去され[11]、山代中佐も本 艦初代駆逐艦長となった[12]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦玉波:竣工日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240429T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240430T150000Z UID:319713676797 DESCRIPTION: 1939年度(マル4計画)仮称第124号艦として藤 永田造船所で建造。1942年3月16日起工、同年12月26日進水 。1943年(昭和18年)4月30日に竣工して一等駆逐艦に類 別され、舞鶴鎮守府籍となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦長月:竣工日(1927) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240429T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240430T150000Z UID:188047015828 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1924年(大正13 年)11月10日、東京石川島造船所で建造される予定の駆 逐艦に「第三十号駆逐艦」の艦名が与えられ[4]、同日 附で「「第28号駆逐艦(のちの水無月)、第29号駆逐艦 (〃文月)、第30号駆逐艦(〃長月)、第31号駆逐艦( 〃菊月)」」は一等駆逐艦に類別された[5]。本艦は1925 年(大正14年)4月16日に起工、1926年(大正15年)10月6日 進水、1927年(昭和2年)4月30日に竣工した[6]。 その後 、1928年(昭和3年)8月1日附で「第30号駆逐艦」は「長 月」と改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夏月:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240430T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240501T150000Z UID:235222084373 DESCRIPTION: 1941年(昭和16年)の戦時急造計画(マル急 計画)仮称第364号艦[3]。佐世保海軍工廠で1944年(昭和1 9年)5月1日に起工[3]。同年12月2日に進水[3]。1945年(昭 和20年)4月8日に竣工[3][4]。呉鎮守府籍となった[5]。当 初は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、線 表改訂により佐世保での建造に変更された[5]。また、 当初は昭和20年3月末の竣工予定だったが、機銃の入手 遅延により竣工期日が遅れた[6]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦秋霜:起工日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240502T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240503T150000Z UID:600524252876 DESCRIPTION: 1942年度(マル急計画)仮称第346号艦として 藤永田造船所で建造、1943年(昭和18年)5月3日起工、8 月31日、18番艦を秋霜と正式に命名[1]。また19番艦も清 霜と命名された[1]。同日附で2隻(秋霜、清霜)は夕雲 型駆逐艦に類別された[2]。 1943年12月5日に進水。\n 1944 年(昭和19年)1月22日、日本海軍は平山敏夫少佐(吹雪 型駆逐艦白雲駆逐艦長)を秋霜艤装員長に任命する[3] 。 3月11日に竣工[4]。同日附で横須賀鎮守府籍と正式決 定[5]。平山少佐も秋霜初代駆逐艦長となった[6]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦海風:起工日(1935) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240503T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240504T150000Z UID:174084894622 DESCRIPTION: 「海風」は舞鶴工廠で1935年(昭和10年)5月4 日に起工[9]。第四艦隊事件のため一時工事を中止し、19 36年(昭和11年)5月より工事を再開[2]。11月27日に進水[9 ][10]。12月1日附で日本海軍は、睦月型駆逐艦11番艦「望 月」駆逐艦長成富武光少佐を海風艤装員長に任命する[1 1]。同日附で山田雄二中佐も江風艤装員長に任命されて いる[11]。 1937年(昭和12年)4月9日、若狭湾(宮津湾) で全力公試を実施、同時期には海上試運転中に冠島と 衝突しかけている[12]。4月15日、成冨海風艤装員長は制 式に海風初代艦長となり、艦幹部達も任命された[13]。 5月31日に竣工[9]。佐世保鎮守府所属。 \n 起工、進水 、竣工ともいずれも「江風」の方が「海風」より早か った[14]。また、進水も白露型8番艦「山風」の方が早か った[15]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦嵐:起工日(1939) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240503T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240504T150000Z UID:141750179207 DESCRIPTION: 仮称第112号艦として舞鶴海軍工廠で1939年( 昭和14年)5月4日起工[4]。舞鶴海軍工廠で建造された陽 炎型は嵐以外に4隻(陽炎、親潮、天津風、野分)が存 在する。1940年(昭和15年)2月23日、陽炎型17番艦萩風と 同日附で命名された[1]。同年4月22日進水[4]。登録上は 舞鶴工廠で建造された姉妹艦野分が陽炎型15番艦で嵐が 16番艦だが[3]、起工・進水・竣工のいずれも野分より嵐 の方が早い[5]。 同年9月16日附で朝潮型駆逐艦2番艦大潮 駆逐艦長渡邉保正中佐は嵐の艤装員長に任命された[6] 。同時期、舞鶴海軍工廠に嵐艤装員事務所を設置[7]。 渡邉は11月25日附で嵐初代駆逐艦長に任命された[8]。同 時期、嵐艤装員事務所を撤去[9]。\n 嵐は1941年(昭和16 年)1月27日に竣工した[4]。横須賀鎮守府籍となり、た だちに横須賀へ回航された[10]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦菊月:戦没日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240504T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240505T150000Z UID:228808778166 DESCRIPTION: 1942年(昭和17年)4月29-30日、ツラギ攻略部 隊(指揮官志摩清英少将、第十九戦隊司令官)および 第23駆逐隊はニューブリテン島の日本軍拠点ラバウルを 出撃、続いてMO攻略部隊主隊と特務隊もラバウルを 出撃した[11]。 5月3日、第十九戦隊はツラギ島(フロリ ダ諸島)を占領する(オーストラリア軍守備隊は一週 間前に撤退)[12][13]。5月4日午前5時30分、第23駆逐隊( 菊月、夕月)は敷設艦「沖島」(第十九戦隊旗艦)に 横付けして燃料補給を開始する[16][3]。\n TBD艦攻8機が 旗艦「沖島」を包囲して雷撃を敢行した[16]。このうち 魚雷1本が「沖島」から離れたばかりの「菊月」右舷機 関室に命中[3]。12名が戦死し、22名が負傷した[18]。「菊 月」は第563号駆潜艇となっていた特設駆潜艇「第三利 丸」に曳航され[19]、ガブツ島(英語版)の海岸に擱座 した[16]。\n 5月5日22時25分、放棄された「菊月」はカ ブツ島のハラボ南緯09度11分 東経160度13分で沈没した[22] 。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦三日月:竣工日(1927) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240504T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240505T150000Z UID:201957484700 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1925年(大正14 年)2月16日、佐世保にて建造予定の睦月型駆逐艦は「 第三十二号駆逐艦」と命名される[3]。なお同日附で妙 高型重巡洋艦「足柄」と「羽黒」も命名されている[4] 。同日附で「足柄、羽黒」は一等巡洋艦に、「第32号駆 逐艦」は一等駆逐艦に類別された[5]。 「第32号駆逐艦 」は佐世保海軍工廠で同年8月21日起工、1926年(大正15 年)7月12日進水、1927年(昭和2年)5月5日に竣工[6]。佐 世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日附で「 第32号駆逐艦」は「三日月」と改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦樫:起工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240504T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240505T150000Z UID:509781102652 DESCRIPTION: 藤永田造船所で建造された。1944年5月5日起 工、8月13日進水、9月30日竣工した。就役後、訓練部隊 の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編 入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夕暮:進水日(1934) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240505T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240506T150000Z UID:115965964465 DESCRIPTION: 「夕暮」は1933年(昭和8年)4月9日に舞鶴工 作部で起工[5]。1934年(昭和9年)5月6日に進水[5]。建造 初期の段階で初春型1番艦「初春」の復元性能不良が判 明し、設計を改めたため、本艦と姉妹艦「有明」は有 明型駆逐艦(改初春型)とも呼ばれる[6]。\n 一等駆逐 艦初春型「夕暮」は1935年(昭和10年)3月30日に竣工し た[5]。4月1日附で姉妹艦「有明」と共に第9駆逐隊を編 制、初代駆逐隊司令は伊崎俊二中佐となる[9]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦暁:進水日(1932) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240506T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240507T150000Z UID:206809350894 DESCRIPTION: 1928年(昭和3年)6月16日、日本海軍は今後建 造予定の吹雪型駆逐艦4隻について暁、響、雷、電の艦 名を内定する[6]。駆逐艦暁は1930年(昭和5年)2月17日、 佐世保海軍工廠で起工[7][8]。同年3月15日、建造中の吹 雪型4隻は正式に暁、響、雷、電と命名される[2]。 1932 年(昭和7年)5月7日午前8時15分、暁は進水した[8][9]。 5 月16日、日本海軍は高橋一松少佐を暁艤装員長[10]に任 命した[注釈 2]。 5月19日、吹雪型姉妹艦2隻(狭霧、漣 )により第10駆逐隊(駆逐隊司令栗田健男中佐)が編制 される[11]。栗田司令は司令駆逐艦を狭霧に指定した[12] 。 8月20日附で高橋は暁初代艦長となり、幹部達もそれ ぞれ任命された[13]。 11月18日、暁艤装員事務所を撤去[1 4]。\n 同年11月30日に竣工[8][注釈 3]。竣工と同時に第 十駆逐隊に編入され、同隊は3隻(狭霧、漣、暁)とな った。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦冬月:起工日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240507T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240508T150000Z UID:161260963277 DESCRIPTION: 1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)に よる乙型一等駆逐艦の第361号艦[9]。舞鶴海軍工廠で1943 年(昭和18年)5月8日に起工[10][9]。当初は三菱長崎造船 所で建造される予定であったが、艦型変更と線表改訂 により舞鶴での建造に変更された[11]。1944年(昭和19年 )1月20日に進水[13][9]。同日附で横須賀鎮守府に入籍[15] 。\n 本艦は同年5月25日に竣工した[20][21]。同日附で、 佐間中佐は正式に冬月初代駆逐艦長となる[22]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦陽炎:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240507T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240508T150000Z UID:151291616972 DESCRIPTION: 1943年(昭和18年)、ムンダやコロンバンガ ラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下してい たため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29 日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガ ラ輸送が行われることになった[166][167]。第15駆逐隊( 親潮、黒潮、陽炎)は奇数回、陽炎型駆逐艦17番艦「萩 風」(第4駆逐隊)および白露型駆逐艦7番艦「海風」( 第24駆逐隊)は偶数回で、交互に駆逐艦輸送を行うこと になった[168][169]。 「陽炎」は4月29日の第一回、5月3日 の第三回と参加したが[170]、毎回同じ航路を取ったため 5月6日にアメリカの機雷敷設艦3隻がブラケット水道に 機雷約250個を敷設していた。\n 5月8日3時49分(3時59分 )、アウェイ島北西約0.6海里で「親潮」が触雷した[177] [178]。 それを潜水艦の雷撃と考えた健在2隻(黒潮、陽 炎)は爆雷を投下した[179][180]。ところが親潮触雷から 数分後、「陽炎」(親潮から北方2000m地点航行中)は 触雷[181][182]。機関部艦底付近で起爆したため、航行不 能となる[174]。 \n その後米雷撃機、戦闘機から攻撃を 受け、その後、北西方向に漂流していた「陽炎」は18時 17分にブラケット水道北西口で沈没した[189][190]。船体 が分断されたり転覆することもなく、そのまま水没し ていったという[191]。沈没までに時間があったた為に食 糧や医薬品を持ちだす余裕があり、また島にも近かっ たため避難上陸は容易だった[191][188]。戦死者18名[177]、 重傷者11名、軽傷者25名[188]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦親潮:戦没日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240507T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240508T150000Z UID:166840177174 DESCRIPTION: 1943年(昭和18年)、ムンダやコロンバンガ ラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下してい たため部隊の補充交代が実施されることになり、4月29 日から5月8日にかけて駆逐艦による6回のコロンバンガ ラ輸送が行われることになった[166][167]。第15駆逐隊( 親潮、黒潮、陽炎)は奇数回、陽炎型駆逐艦17番艦「萩 風」(第4駆逐隊)および白露型駆逐艦7番艦「海風」( 第24駆逐隊)は偶数回で、交互に駆逐艦輸送を行うこと になった[168][169]。 \n 5月7日17時、第15駆逐隊3隻(親潮 、黒潮、陽炎)はブインから第五回の輸送に出発した[9 4]。3隻は前回同様ファーガスン水道、ブラケット水道 を通って5月8日午前1時ごろにコロンバンガラ島ビラ沖 に入泊し、搭載人員、物資を下ろして帰還者を乗せる と3時10分ごろに出港した[96]。3時49分、「親潮」はアウ ェイ島北西約0.6海里で触雷、航行不能になった[97]。\n  漂流中、米機の爆撃により、「親潮」の三番砲塔付 近に爆弾1発が命中した[99]。「親潮」は南方に漂流し、 同日17時5分にアンウィン諸島西端付近で沈没した[100]。 「親潮」では91名の戦死者が出た(黒潮戦死者83名、陽 炎戦死者18名)[97][101]。艦齢は約2年8ヶ月だった[102]。 第15駆逐隊司令牟田口大佐や東(親潮駆逐艦長)以下生 存者は近くの島へ移動[103]。引き揚げ船でショートラン ド泊地に戻った[104]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦叢雲:竣工日(1929) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240509T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240510T150000Z UID:150869285497 DESCRIPTION: 1927年(昭和2年)4月26日、建造予定の一等駆 逐艦4隻に、それぞれ「第36号駆逐艦(のちの白雪)」[8 ]、「第38号(〃深雪)」、「第39号(〃叢雲)」、「第 44号(〃浦波)」の艦名が与えられた[9][10][6]。 「第39 号駆逐艦」は藤永田造船所で、同年4月25日(正式命名 の前日)起工[11]。 1928年(昭和3年)8月1日附で「第39号 駆逐艦」は「叢雲」と改名された[1][12]。 同年9月27日進 水[13]。 10月20日、日本海軍は砲艦「嵯峨」艦長柳原信 男中佐を叢雲艤装員長に任命する(後任の嵯峨艦長は熊 澤桝蔵中佐《当時、潜水母艦迅鯨副長》)[14]。 11月3日 、藤永田造船所に叢雲艤装員事務所を設置する[15]。\n19 29年(昭和4年)5月10日、本艦は竣工[11][16]。柳原信男中 佐(叢雲艦長)、有田雄三大尉(叢雲水雷長)[注釈 1] 、小倉藤三郎大尉(叢雲砲術長)、室田勇次郎(叢雲 航海長)[注釈 2]、高橋伊三次機関大尉(叢雲機関長)[ 17]。 同日附で艤装員事務所を撤去[18]。第二艦隊・第二 水雷戦隊・第12駆逐隊(駆逐隊司令有地十五郎大佐)[19 ]に編入され、同隊は定数4隻(東雲、薄雲、白雲、叢雲 )を揃えた[20]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦霞:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240509T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240510T150000Z UID:327668539329 DESCRIPTION: 1945年5月10日、「霞」および「朝霜」は除籍 された[280]。また姉妹艦全隻を喪失した夕雲型駆逐艦と 満潮型(朝潮型)駆逐艦は艦艇類別等級表から削除された [281]。 第21駆逐隊も同日附で解隊[282]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝霜:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240509T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240510T150000Z UID:249109360430 DESCRIPTION: 1945年5月10日、第21駆逐隊は解隊された[138]。 同日、「朝霜」は夕雲型駆逐艦[139]、帝国駆逐艦籍よ り除籍された[140]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦島風:竣工日(1943) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240509T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240510T150000Z UID:162644390853 DESCRIPTION: 1941年(昭和16年)8月8日、舞鶴海軍工廠で起 工。 1942年(昭和17年)5月15日、第125号艦を島風(シマ カゼ)と命名[20]。艦艇類別等級別表に(艦型なし)島風 として登録される[37]。なお同日附で阿賀野型軽巡洋艦 能代[38]、秋月型駆逐艦5番艦新月も命名されている[20] 。 当時の舞鶴海軍工廠は、秋月型駆逐艦2隻(秋月、初 月)や夕雲型駆逐艦4隻(巻波、340号艦早波、341号艦浜 波、342号艦沖波)の建造[39][40]、軽巡4隻(那珂、名取 、天龍、龍田)や駆逐艦複数隻(薄雲、大潮、霞、不 知火、初春)等の修理整備工事を抱えており[41]、島風 の建造もその中でおこなわれた。 島風は7月18日に進水 した[42]。同日附で呉鎮守府籍[43]。\n 1943年(昭和18年 )3月20日附で、広瀬弘中佐(駆逐艦春雨艦長等を歴任 、朝潮型駆逐艦2番艦大潮沈没時の駆逐艦長。3月15日附 で同艦駆逐艦長免職[44])が島風の艤装員長に任命され た[45]。 4月に各種の試験をおこなったが、巡航機械に 不具合がみつかり、竣工予定日を延期した[46]。島風は5 月10日に竣工、海軍に引き渡された[47]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夕霧:進水日(1930) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240511T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240512T150000Z UID:249217420947 DESCRIPTION: 舞鶴工作部で建造。1929年4月1日に起工、1930 年5月12日に進水。同年12月3日に竣工した。一等駆逐艦 に類別された。竣工と同時に第8駆逐隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦電:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240513T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240514T150000Z UID:326804726327 DESCRIPTION: 1944年5月3日、「電」は「響」とともにヒ61船 団に加入し、六連島沖を出撃[109][110]。5月9日にマニラ に到着後、船団加入船のうち3隻の特設運送船(給油) 、「日栄丸」(日東汽船、10\,021トン)と「建川丸」( 川崎汽船、10\,090トン)、「あづさ丸」(石原汽船、10\, 022トン)は第一機動艦隊(小沢治三郎中将)への補給 任務のためマニラでヒ61船団から分離し、「響」ととも に護衛にあたることとなった[101][109][111]。\n 5月14日未 明、北緯05度03分 東経119度36分のシブツ海峡で哨戒中の アメリカ潜水艦ボーンフィッシュ(USS Bonefish\, SS-223) が距離7\,000ヤードのかなたに3隻のタンカーを発見し、 戦闘配置を令する[112]。そのころ、「電」は「響」と位 置を交代したばかりであった[114][115]。そこにボーンフ ィッシュからの魚雷が接近した。魚雷は中部と後部に1 本ずつ命中し、「電」は右舷側に45度に倒れて後部は二 つ折れとなり、間もなく沈没した[116]。「電」乗員のう ち常盤駆逐艦長以下169名が戦死したが[114]、121名は「響 」に救助された[117][115]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦初春:起工日(1931) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240513T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240514T150000Z UID:132799785684 DESCRIPTION: 仮称第59号駆逐艦(初春)は佐世保工廠で193 1年(昭和6年)5月14日に起工[6][7]。 1932年(昭和7年)8 月1日、初春型駆逐艦3隻にそれぞれ初春・子日・若葉の 艦名が与えられる[1][2]。同日附で二等巡洋艦最上型に 最上と三隈[8][9]、千鳥型水雷艇2隻に千鳥と真鶴、夏島 型敷設艇夏島等の艦名が通達された[1][1]。\n 「初春」 は1933年(昭和8年)2月27日に進水[7][10]。 5月1日、日本 海軍は峯風型駆逐艦15番艦「沼風」駆逐艦長田原吉興少 佐を、初春艤装員長に任命する[11]。 5月11日、艤装員事 務所を設置[12]。 7月1日、田原艤装員長は制式に初春駆 逐艦長(初代)となる[13]。 9月22日、初春艤装員事務所 を撤去[14]。 9月30日竣工した[7]。これは初春型2番艦「 子日」と同日附の竣工である[15]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦汐風:起工日(1920) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240514T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240515T150000Z UID:272558174105 DESCRIPTION: 舞鶴海軍工廠で建造。1920年5月15日起工、同 年10月22日進水。1921年7月29日に竣工した。一等駆逐艦に 類別され、横須賀鎮守府籍に編入。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦菊月:進水日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240514T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240515T150000Z UID:107535970141 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。1924年(大正13 年)11月10日、舞鶴工作部で建造される予定の駆逐艦に 「第三十一号駆逐艦」の艦名が与えられ[4]、同日附で 「第28号駆逐艦(のちの水無月)、第29号駆逐艦(〃文 月)、第30号駆逐艦(〃長月)、第31号駆逐艦(〃菊月 )」は一等駆逐艦に類別された[5]。本艦は1925年(大正1 4年)6月15日に起工、1926年(大正15年)5月15日進水、同 年11月20日に竣工した[6]。佐世保鎮守府に所属。 1928年 (昭和3年)8月1日附で「第31号駆逐艦」は「菊月」と改 名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦春風:起工日(1922) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240515T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240516T150000Z UID:510904068266 DESCRIPTION: 本艦は舞鶴工作部で建造[10]。第5駆逐艦は192 2年(大正11年)5月16日起工[14]。8月24日、第5駆逐艦は、 姉妹艦や軽巡洋艦「夕張」および給油艦2隻(鳴戸、早 鞆)と共に艦艇類別等級表に登録された[15][16]。 12月18 日進水[14][17]。 1923年(大正12年)5月31日に竣工した[14][ 18]。同年12月1日、初代「春風」は駆逐艦から掃海艇に 類別変更[9]。\n 1924年(大正13年)4月24日に、第5駆逐 艦は第五号駆逐艦に改名[8][19]。さらに1928年(昭和3年 )4月1日附で初代「春風」は除籍[9]。これにより同年8 月1日附で第5号駆逐艦は「春風」と改名された[8][19]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦清霜:竣工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240515T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240516T150000Z UID:243169666587 DESCRIPTION: 1942年度(マル急計画)仮称第347号艦として 計画され、浦賀船渠の第517番船[1]として建造される。19 43年(昭和18年)3月16日に起工、8月30日、清霜と命名さ れた[3]。同日附で夕雲型18番艦「秋霜」等も命名[3]。2 隻(秋霜、清霜)は駆逐艦一等夕雲型に分類される[4] 。 \n 1944年(昭和19年)2月29日進水。3月4日、浦賀船渠 に清霜艤装員事務所を設置[5]。 3月5日附で、日本海軍 は吹雪型駆逐艦曙水雷長[6]、睦月型駆逐艦11番艦望月艦 長、峯風型駆逐艦11番艦太刀風艦長[7][8]等を歴任した宮 崎勇少佐を清霜艤装員長に任命する[9]。 5月16日竣工[1] 。宮崎艤装員長も正式に清霜駆逐艦長(初代)となっ た[10]。海軍に引き渡されて[11]横須賀鎮守府籍となる。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦時雨:進水日(1935) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240517T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240518T150000Z UID:114539485561 DESCRIPTION: 白露型駆逐艦2番艦・時雨は浦賀船渠で1933年 (昭和8年)12月9日に起工[9]。12月15日、建造中の駆逐艦 3隻にそれぞれ白露(シラツユ)、時雨(シグレ)、村 雨(ムラサメ)の艦名が与えられた[10]。当時、有明・ 夕暮・白露・時雨・村雨・夕立・春雨は『有明型駆逐 艦』に類別されていたが、諸事情により有明・夕暮は 初春型駆逐艦に類別され、新たに『白露型駆逐艦』が 新設されている[11]。 1935年(昭和10年)5月18日進水[12] 。1936年(昭和11年)9月7日に竣工[1]。横須賀鎮守府籍[13 ]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦漣:竣工日(1932) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240518T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240519T150000Z UID:211153087030 DESCRIPTION: 駆逐艦「漣」は舞鶴工作部で建造[3]された 。1930年(昭和5年)2月21日に起工[3][4]。同日、舞鶴工作 部では姉妹艦「響」の建造も始まっている[5][6]。1931年 (昭和6年)6月4日[3]もしくは6月6日に進水[4]。1932年( 昭和7年)5月19日に就役[3][4]。一等駆逐艦に類別され、 第二艦隊・第7駆逐隊に編入された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦柳:解体日(1946) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240519T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240520T150000Z UID:325302254631 DESCRIPTION: 7月14日、折から日本本土への最終攻撃作戦 を行っていた第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シ ニア中将)は、朝から艦載機を飛ばして北海道および 東北地方の市街や港湾施設、飛行場、艦船を片っ端か ら攻撃していった。その後、偵察機に発見された「柳 」は渡島福島沖で空母「エセックス」艦載機の空襲を 受ける[8]。魚雷の回避には成功したものの、ロケット 弾攻撃が命中。11時52分頃、艦尾切断、舵機室・推進機 能喪失の被害を受けた[12]。大湊に曳航された「柳」だ が、8月9日にも大湊湾で第38任務部隊の艦載機による再 度の空襲を受ける(大湊空襲)。敷設艦「常磐」とと もに攻撃を受けて大破し、浸水が激しく葦崎東方海岸 に擱座して沈没を免れた。8月15日の終戦を迎えて乗員 が艦を去っていく事により排水作業が出来なくなるこ とから、8月15日中に艦の保全のために同じく葦崎東方 海岸に擱座し、曳船の助けを得て投錨して艦を固定し た[15]。\n その後本艦「柳」は1946年(昭和21年)10月か ら翌年5月20日頃までに解体された。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦睦月:起工日(1924) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240520T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240521T150000Z UID:449453003353 DESCRIPTION: 1923年(大正12年)度計画艦。同年7月19日、 舞鶴工作部で建造予定の駆逐艦に第十九駆逐艦の艦名 が与えられた[4]。同日附で「第十九駆逐艦」、第二十 一駆逐艦、第二十三駆逐艦、第二十五駆逐艦、第二十 七駆逐艦は一等駆逐艦に類別された[5]。1924年(大正13 年)4月24日、艦名に「号」の字が加えられ艦名を第十 九号駆逐艦に改正した[6]。\n 第19号駆逐艦(睦月)は佐 世保海軍工廠で1924年5月21日に起工、1925年(大正14年)7 月23日進水、1926年(大正15年)3月25日に竣工し[7]、佐世 保鎮守府に所属する。その後1928年(昭和3年)8月1日附 で第19号駆逐艦は睦月へと改名された[1]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦朝凪:戦没日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240521T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240522T150000Z UID:109189618279 DESCRIPTION: 1944年(昭和19年)4月上旬、「朝凪」は白露 型駆逐艦6番艦「五月雨」(第2護衛船団司令官清田孝彦 少将座乗)や給糧艦「間宮」等と共に東松四号輸送船 団に参加[47]。この船団は輸送船2隻(4月3日、東征丸。4 月10日、美作丸)沈没のみで、おおむね成功した[47]。\n  船団は5月14日にサイパンへ到着するが、このうち水 無月以下3隻に護衛された輸送船4隻(5月16日サイパン発 ヤップ行)は日吉丸・復興丸沈没等の被害を出した[48] 。 5月17日、朝凪以下護衛艦7隻と船団10隻はサイパンを 出港[24][49]。横須賀に向け航海中の5月22日午前3時頃[49] 、小笠原諸島の父島北西沖北緯28度19分 東経138度54分地 点において[50]、アメリカ海軍の潜水艦ポラック(USS Pol lack\, SS-180)の雷撃を受ける[24]。魚雷1本が左舷後部に 命中、老朽化のため浸水がとまらず大西(朝凪艦長) は総員退去を発令[49]。「朝凪」は艦尾から沈没した[49] 。戦死者約30名[49]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦萩風:起工日(1939) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240522T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240523T150000Z UID:250900811958 DESCRIPTION: マル4計画、仮称第113号艦として浦賀船渠で1 939年(昭和14年)5月23日起工[3]。同造船所では、萩風の ほかに5隻の陽炎型(不知火、早潮、時津風、浜風、秋 雲)を建造した。 1940年(昭和15年)2月23日、仮称第113 号艦は「萩風」(ハギカゼ)と命名された[1]。同日附 で姉妹艦嵐や敷設艦津軽等も命名されている[1]。萩風 は同年6月18日に進水し[3]、1941年(昭和16年)3月31日竣 工[3]。横須賀鎮守府籍。 同日附で萩風は陽炎型16番艦 嵐と共に、新たに編制されたばかりの第4駆逐隊に所属 することになった[8]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦菊月:除籍日(1942) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240524T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240525T150000Z UID:260641716448 DESCRIPTION: 1942年5月25日、駆逐艦「菊月」は帝国駆逐艦 籍[30]、睦月型駆逐艦[31]より除籍された。\n 現在もソ ロモン諸島のフロリダ諸島を構成する島のひとつ、ン ゲラスレ島(フロリダ島)にあるトウキョウ・ベイと呼ば れる湾内[33]の海岸に座礁した状態となっている。南緯0 9度07分24.2秒 東経160度14分16.0秒。長年の風雨や波浪によ る風化により水上に出ている船体のほとんどが崩壊し 、原形をとどめていない。 現在、水上にある唯一の日 本海軍艦艇[34]ではあるが、近年、地球温暖化による海 面上昇により、少しずつ海面下に没しつつある。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦冬月:竣工日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240524T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240525T150000Z UID:293447096952 DESCRIPTION: 1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)に よる乙型一等駆逐艦の第361号艦[9]。舞鶴海軍工廠で1943 年(昭和18年)5月8日に起工[10][9]。当初は三菱長崎造船 所で建造される予定であったが、艦型変更と線表改訂 により舞鶴での建造に変更された[11]。1944年(昭和19年 )1月20日に進水[13][9]。同日附で横須賀鎮守府に入籍[15] 。\n 本艦は同年5月25日に竣工した[20][21]。同日附で、 佐間中佐は正式に冬月初代駆逐艦長となる[22]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦桑:進水日(1944) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240524T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240525T150000Z UID:136163656081 DESCRIPTION: 藤永田造船所で建造され、1943年12月10日起工 、1944年(昭和19年)5月25日に進水、7月25日竣工。訓練 部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完海軍少将・海軍 兵学校41期)に編入される[2]。瀬戸内海に回航され、8 月3日から8月30日までは輸送任務に従事中の長良軽巡洋 艦1番艦「長良」に代わって第十一水雷戦隊の旗艦を務 めた[3]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦山風:起工日(1935) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240524T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240525T150000Z UID:148543589824 DESCRIPTION: 本艦は浦賀船渠で1935年(昭和10年)5月25日 に起工[11][12]。 1936年(昭和11年)2月21日進水[13][11]。当 事の浦賀船渠は白露型3隻(時雨、五月雨、山風)を同 時に建造していた[14]。 7月1日、日本海軍は野間口兼知 少佐(前職、睦月型駆逐艦5番艦皐月駆逐艦長)を山風 艤装員長に任命した[15]。\n 1937年(昭和12年)1月21日 、浦賀船渠に山風艤装員事務所を設置[16]。 5月31日、姉 妹艦2隻(江風、海風)により第24駆逐隊が編制される (司令久宗米次郎大佐)[17][18]。初代司令駆逐艦は「江 風」[19]。「江風」は本艦よりも先に竣工していたので ある[20]。 編制直後の第24駆逐隊は佐世保警備戦隊に編 入、同戦隊は(戦艦《金剛》、巡洋艦《妙高、長良、 北上》、第24駆逐隊、第23駆逐隊《菊月、三日月、望月 、夕月》、第29駆逐隊《追風、疾風》)となった[21]。\n  6月30日、「山風」は竣工した[11]。同日附で野間口艤 装員長は山風駆逐艦長(初代)となる[22]。佐世保鎮守 府所属[23]。竣工と同時に、佐世保へ回航[24]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦磯風:除籍日(1945) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240524T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240525T150000Z UID:210778477239 DESCRIPTION: 駆逐艦磯風は1945年5月25日附で 第17駆逐隊[218 ] 帝国駆逐艦籍[219]、 不知火型駆逐艦[220]のそれぞれか ら除籍された。磯風は連合艦隊の栄光から終焉、さら に大和型戦艦姉妹の最後を見届けた歴戦の艦だった[1] 。 元磯風の乗組員であった井上理二(昭19年1月、磯風 に配属)は、自著『駆逐艦磯風と三人の特年兵』にお いて磯風が最高武勲艦であると記している[223]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦水無月:進水日(1926) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240524T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240525T150000Z UID:327452490335 DESCRIPTION: 1925年(大正14年)3月24日、第二十八号駆逐 艦(水無月)は浦賀船渠で起工[9]。 1926年(大正15年)5 月25日、進水[9][17]。 12月1日、日本海軍は第27号駆逐艦 《皐月》、第29号駆逐艦《文月》で第二水雷戦隊(旗艦 「夕張」)麾下に第22駆逐隊を編成[18][19]。第22駆逐隊 司令は池田武義大佐[20]。 同日附で古賀七三郎中佐(当 時、第九号《旗風》駆逐艦長)は第二十八号駆逐艦艤 装員長に補職[20]。 12月3日、浦賀船渠の第二十八号駆逐 艦艤装員事務所は事務を開始する[21]。\n 1927年(昭和2 年)3月22日、竣工[9]。1928年(昭和3年)8月1日附で第二 十八号駆逐艦は「水無月」と改名[1][25]。また各艦の改 名(命名)と同時に、第十九号型駆逐艦は睦月型駆逐 艦に改訂された[8]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦荒潮:進水日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240525T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240526T150000Z UID:239984312254 DESCRIPTION: 1935年(昭和10年)9月28日、建造予定の駆逐 艦2隻に「満潮」と「荒潮」[4]、8500トン級巡洋艦に対し 「筑摩」の艦名が与えられた[5][1]。同日附で3隻(筑摩 、満潮、荒潮)は艦艇類別等級表に登録された[6]。 「 荒潮」は神戸川崎造船所で同年10月1日に起工[7][8]。神 戸川崎造船所で建造された朝潮型は、「荒潮」と「朝 雲」の2隻である[9]。\n 「荒潮」は1937年(昭和12年)5 月26日に進水[7][10]。佐世保海軍工廠で建造中の朝潮型7 番艦「夏雲」と同日附の進水だった[10][11]。 7月15日、 日本海軍は吹雪型駆逐艦「白雲」艦長山隈和喜人少佐 を、荒潮艤装員長に任命する[12]。 7月22日、荒潮艤装員 事務所を設置[13]。 「荒潮」は12月20日に竣工した[7]。 同日附で山隈艤装員長は制式に荒潮駆逐艦長(初代) となる[14]。 LOCATION: END:VEVENT BEGIN:VEVENT SUMMARY:駆逐艦夏雲:進水日(1937) DTSTART;VALUE=DATE-TIME:20240525T150000Z DTEND;VALUE=DATE-TIME:20240526T150000Z UID:589849420040 DESCRIPTION: 1936年(昭和11年)6月10日、佐世保工廠で建 造予定の駆逐艦に「夏雲」の艦名が与えられる[1]。佐 世保工廠で建造された朝潮型は、「朝潮」と「夏雲」 の2隻である[3]。「夏雲」は同年7月1日に起工[4][5]。 1937 年(昭和12年)5月26日に進水[4][6]。神戸川崎造船所で建 造していた朝潮型4番艦「荒潮」と同日附の進水である[ 6]。 8月16日、日本海軍は吹雪型駆逐艦「東雲」および 「薄雲」駆逐艦長を兼務していた北村昌幸中佐を、夏 雲艤装員長に任命した[7]。8月23日、佐世保工廠に夏雲 艤装員事務所を設置[8]。本艦は朝潮型1番艦「朝潮」と 共に建造された。 同年12月8日、北村は正式に夏雲初代 駆逐艦長となる[9]。\n 1938年(昭和13年)2月10日に竣工 [4]。ただちに横須賀に回航された[10]。同日附で第41駆 逐隊(山雲、夏雲)が編制された(駆逐隊司令高間完 大佐)。 LOCATION: END:VEVENT END:VCALENDAR