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レイテ沖海戦において、第4駆逐隊は分散配備された。「野分」のみ単艦で第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦矢矧)直属となり、第17駆逐隊(浦風、磯風、雪風、浜風)・夕雲型「清霜」と共に第一遊撃部隊(栗田艦隊)第二部隊(指揮官兼第三戦隊司令官鈴木義尾中将:戦艦金剛、榛名)に加わって参加した[162]。1944年10月25日未明のレイテ沖海戦スリガオ海峡夜戦で西村艦隊は時雨1隻を残して全滅、この一連の戦闘において、司令官白石万隆少将率いる第七戦隊(最上型重巡洋艦《熊野、鈴谷》、利根型重巡洋艦《利根、筑摩》)は大きな損害を受けた[170]。 その後、野分は筑摩の乗員救助を行い、筑摩を雷撃処分した(既に沈没していたともいわれる。)[176]。撤退する大和以下栗田艦隊本隊から遅れたため、10月25日の深夜にサンベルナルジノ海峡手前でウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督率いる米高速戦艦部隊(ニュージャージー、アイオワ基幹、軽巡3隻、駆逐艦8隻)に捕捉される[177]。アメリカ軍は野分を巡洋艦もしくは大型駆逐艦と判断していた[178]。野分は米軽巡ヴィンセンス、ビロクシー、マイアミ、駆逐艦オーエン、ミラーによるレーダー射撃を受け大破[179]、最後は駆逐艦の魚雷を受けて沈没した。艦長以下272名[180]全員が戦死した[181]。野分に乗艦していた120-130名の筑摩乗員[182]も、アメリカ軍に救助された1名以外同じ運命を辿った[176]。アメリカ軍によれば、沈没地点北緯13度0分 東経124度54分。