本日 2025年11月29日(土) 03:21 Etc/GMT-8

2025/11/29 23:00~2025/11/30 23:00

駆逐艦「高波」

1942年11月30日 ルンガ沖夜戦にて戦没 輸送船によるガダルカナル島突入が失敗に終わると、ガダルカナル島に対する輸送作戦はドラム缶を用いた鼠輸送に切り替えた。田中少将は月齢、作業時間、訓練などを勘案して12月1日以降に決行してはと第八艦隊(三川軍一中将・海兵38期)に二度意見具申したが[14]、潜水艦による輸送が進捗しない事やガダルカナル島の将兵の糧食が厳しくなっている事を理由に、意見は二度とも却下された[15]。二度も意見を却下された田中少将は、配下の駆逐艦全てから予備魚雷を降ろし、警戒艦を除く各艦にドラム缶を200個から240個搭載させた[16]。警戒艦は第三十一駆逐隊の諸艦に割り振って、警戒隊と二つの輸送隊の警戒担当とし[17]、田中少将は長波を臨時の旗艦とした。高波は第三十一駆逐隊の司令駆逐艦であった。 11月29日夜22時45分、第二水雷戦隊はショートランドを出撃して北方からガダルカナル島を目指した[18]。しかし、翌11月30日朝に偵察のB-17 に発見される[19]。これを受け、南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は「東京急行」を阻止すべく、カールトン・H・ライト少将の第67任務部隊(英語版)を出撃させた[20]。サボ島沖に差し掛かった20時30分頃、高波は単艦先行してアメリカ艦隊の攻撃に備え、長波、巻波も輸送隊からやや離れて警戒の任務にあたった。21時12分、高波は第67任務部隊を発見する。敵発見の報を受けて、田中少将はドラム缶を投棄させて戦闘態勢に入った。ルンガ沖夜戦の始まりである。敵発見を報じた高波は、21時20分から第67任務部隊の集中砲火を浴び、直ちに反撃の酸素魚雷を発射したものの、袋叩きの末航行不能となった[21]。その隙を突いて他の駆逐艦も酸素魚雷を発射し、その槍衾は第67任務部隊の巡洋艦部隊に襲い掛かった。先頭のミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) には魚雷が2本命中し艦首を吹き飛ばし、ミネアポリスの後方を包んでいたニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) も魚雷の射線に飛び込み、艦首に魚雷が命中してミネアポリス同様に鼻先を失った。3番艦ペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) は損傷したミネアポリス、ニューオーリンズ両艦を避けるべく左に舵を切ったが、両艦からの火災によってペンサコーラの艦影が浮かび上がり、日本側による2度目の雷撃の格好の目標となってしまった。ペンサコーラには1本が後部マスト直下の左舷側に命中し、機械室が破壊され砲塔3基が使用不能になった上、大火災が発生した。4番艦ホノルル (USS Honolulu, CL-48) は30ノットの速力で相手から離れ無事だった。5番艦ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) は魚雷2本が左舷後部に命中したが、命中穴は大きく同一箇所に命中したようだった[22]。ノーザンプトンは左に大きく倒れ、3時間後に傾斜して燃えながら沈没していった。 23時ごろ、航行不能となった高波に親潮と黒潮が接近して救助作業を行おうとしたが、第67任務部隊の駆逐艦部隊が接近してきたため作業は断念された[21]。やがて自沈の処置がとられ乗員の退去に入ったが、艦尾の爆雷が爆発してサボ島の南6海里の地点で沈没していった[21]。駆逐艦長小倉正身中佐は艦橋で敵弾により右半身がえぐられて戦死し[23]、第三十一駆逐隊司令清水利夫大佐(海兵46期)も行方不明となった[24]。乗員のうち140名が戦死し、生存者は後刻ショートランドに生還した[24]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B3%A2_(%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6)