本日 2025年8月3日(日) 03:42 Etc/GMT-9

2025/08/15

駆逐艦涼月:終戦日(1945)

 1945年4月7日アメリカ軍機動部隊艦載機の第一波、第二波攻撃により「涼月」は被弾により艦首が沈下(前方傾斜10度)、中央部も海面から甲板まで数十㎝という状態で前進すると船体が潜ってしまう状態だった[140]。海図焼失、コンパス破損の状況ながらも涼月は日本本土を目指した。4月8日朝、「冬月」は各隊に単独帰投中の「涼月」の掩護を要請した[160][157]。9時32分、指宿航空隊機により、佐多岬の262度140海里の地点を北上しているのが発見される[161]。昼前には1隻の漁船から「われ貴艦の側方を護衛する」と手旗信号をおくられ、涼月乗組員一同を苦笑させた[162]。14時30分、ついに佐世保に帰投する[163][157]。  本艦の修理に必要な期間は約3ヶ月と算出された[169]。5月5日完成を目標に、停泊に差し支えない程度のものが行われ[170]、次いで本修理の施工に関しては昭和20年度中には実施しない事が決まった[170]。6月10日に佐世保を出発、後部砲塔二基のみ砲側照準で射撃可能な状態となって相浦に係留された[172]。岸まで板桟橋を渡し、機関に火は入れず陸上より給電を行った[173]。当時の乗組員は約100名ほどで、農耕隊と漁撈隊を編制すると、開墾や、貰い受けた漁船を活用して食糧調達を行う[177]。その間の7月と8月に対空戦闘を行い、うち8月の対空戦闘でP-51「ムスタング」1機を高射砲で撃墜した[177]。