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1943年7月25日、第4駆逐隊司令指揮下の駆逐艦3隻(萩風、嵐、時雨)はサンタイサベル島レカタ輸送を実施、揚陸に成功して28日夕方ラバウルへ戻った[106]。ニュージョージア島での戦局は悪化する一方であり、日本軍はさらなる増援部隊を投入する。 8月6日、コロンバンガラ輸送隊はブインへ向かう川内と分離後、萩風-嵐-江風-時雨の単縦陣を形成し、30ノットを発揮して目的地に近づいた[111][113]。各艦の開距離は500mだったが、3番艦江風と最後尾時雨の距離は1000mに開いていた[114]。海面には薄い靄がたちこめ、視界は不良だったという[115] [116] [117]。 日中の時点で輸送隊はアメリカ軍哨戒機に捕捉され、行動を報告されていた[117]。アメリカ軍駆逐艦6隻はレーダーを装備しており、日本艦隊に対して先制攻撃を敢行する[118]。米水雷戦隊は24本の魚雷を発射[119]。日本艦隊が米艦隊に気付いた時には次々に魚雷が命中し、江風は轟沈した[120]。 第4駆逐隊(萩風、嵐)も被雷して戦闘不能となった[116]。 萩風には魚雷2本が命中し[121][122]、 主砲や魚雷発射管は使用不能となったため使用可能の機銃で反撃を実施した[121]。だが2隻は続く米駆逐艦隊の砲撃によって炎上し、嵐は22時10分前後に沈没、萩風も総員退去後の22時18分に沈没した[123][124][125]。 米艦隊は時雨の追跡を打ち切ったのち戦闘海域に戻り、萩風以下沈没艦3隻の生存者を救助しようとしたが、ほとんどの者は救助を拒んだという[131]。戦死者約170名以上[132]。